第四章

(5)


 ラーラの入れてくれた湯は丁度よい温度で、ラティアリスのたまった旅の疲れを癒してくれた。これまでの旅でも何度かお湯を用意してもらったが、汗や汚れを落とす程度で、疲れをとるものではなかった。久しぶりの長風呂は、ラティアリスにどっと眠気をもたらした。
「ごめんなさい、ラーラ…」
「いいえ、疲れが出たのでしょう。今日はもうお休みください」
「ええ、そうします」
 あくびをかみ殺し、ラーラに支えられながら何とか寝台にたどり着く。そのまま倒れこめば、一気に夢の世界へ飛び込みそうだ。
 すると、うとうとするラティアリスの部屋の戸を叩く音がした。いち早く反応したのはラーラで、彼女はラティアリスに断りを入れるとすぐに扉に向かう。
 何やら小声ながらも言い合う声がし、暫くしてラーラが戻ってくる。
「申し訳ありません、姫様…。使者の、セーラム様と、ゴドウィック様がお見えですが…」
 どうしましょう、そう問うラーラは少し困った様子だった。ラティアリスの体調のことをかんがみて、一旦断りを入れたが、向こうが食い下がらなかったのだろう。
 ラティアリスは眠たい身体に鞭打って立ち上がる。
「お迎えしましょう。追い返すのも悪いですから…」
 とはいえ、あくびが止まらない。ラティアリスは頬を軽くたたき、眠気を追い出す。ラーラはそんなラティアリスにそっと上着をかけ、支えるようにソファに腰を下ろさせた。
 そしてすぐに扉へ向かう。
 ややあって現われたのは、二人の男性だった。一人は長い白髪の老人で、少し背が低い。その後ろに続くのは黒髪で立派な髭を生やした中年の男性だった。前者がセーラム、後者がゴドウィックだ。
 二人の姿を認めたラティアリスはすっと立ち上がり、ふたりに頭を下げる。そんな彼女にセーラムもわびの言葉を入れつつ、頭を下げた。
「夜分遅くに申し訳ありません、姫様…」
「いいえ、こちらこそ、この様な格好で失礼致します」
「ふん、まったくだ」
「ゴドウィック殿!」
 上着を着ているとはいえ、夜着で男性を迎えたラティアリスをゴドウィックは吐き捨てた。セーラムは彼を咎めるが、改める様子はない。
 元々、ゴドウィックはサクスアイール側の人間だ。ラティアリスを好ましく思っていないのだから当然だろう。それに彼は自分の身分に絶対的な自負心を持っており、貴族以外の人間を毛嫌いしている節があった。
 対するセーラムはオーリオ側の人間で、生来穏やかな性格の持ち主だ。ラティアリスにも友好的で、争いを好まず、話し合いにより解決策を模索する姿は、オーリオに好かれていた。彼は使者団の中でも一番地位が高かったため、そのまま使者の長を務めていた。
 対照的な二人の登場に、ラティアリスは戸惑う。二人は対立の立場にあるからだ。
「あの、いったいどのような御用件で…」
 ラティアリスは二人を座るよう促し、自身もソファに腰を下ろす。促す前からどかりと腰をおろしたゴドウィックのことは、あまり気にしないようにした。
「いえ、私はそこまで言う必要もないとも思ったのですが…」
「本日の姫様の行動、私はどうかと思います」
 呆れ調子のセーラムの言葉を遮るように、ゴドウィックは強い口調で言った。一瞬、何のことを言われているのか分からず、ラティアリスは目を丸くする。
 そんな彼女を、ゴドウィックは鼻で笑う。
「よいですか、姫様。あなたは仮にも他国の王に嫁がれる方だ。そのような方が、下位の者たちのいる広間に行き、下等な見世物に夢中になるとは…あまつさえ、血の気の多い医務室へ行くなど」
 セシリアに誘われ、広間に行ったことを咎められたラティアリスは、息を呑んだ。一体どこからそのことを知ったのかはわからないが、彼が兵士たちを馬鹿にしていることがありありと感じられた。
「彼らは、国を守ってくれている兵士です。そのような言い方は…っ」
 今日、命をかけて守ってくれた彼らを馬鹿にされたことに、苛立ちを感じたラティアリスはゴドウィックの暴言を責めた。しかし、彼の小馬鹿にしたような表情は変わらない。
「彼らが国を守るのは当然でしょう。下位の者にとってそれは義務だ。むしろ、そういう役目を国から与えられているのです。感謝しなければならない」
「―――っ!」
「ゴドウィック殿、その辺でいいでしょう」
 歯を食いしばったラティアリスをそっと守るように、セーラムは会話に入った。
「私としては、ゴドウィック殿のいう下位のものと交わることも、王族の務めと思っております。ですが、ひとつだけ言わせていただきたいことがあるとすれば、あまり危ないところにはいかないでほしいということです。野蛮、というわけではありませんが、酒の入った男たちは、姫様に何をするかわかりません。それだけは、覚えておいてくださいね」
 セーラムは微笑んで、しかししっかりラティアリスに釘を刺した。ラティアリスのしたことに賛成しつつも、まずは自覚を持ってほしいという意味が、セーラムの言葉に含まれていた。
 ラティアリスはセーラムの優しい言葉に、重みを感じ、反省した。彼の言葉には、そうさせられる力があった。
「申し訳、ありません。自重いたします」
「分かってくださればいいのです」
 反省の意を示したラティアリスに、セーラムは優しく微笑んだ。それをゴドウィックは面白くなさそうに舌打ちする。
「では、私たちはこれで」
 そう言ってセーラムは立ち上がり、ゴドウィックは何も言わずさっさと扉から出て行った。セーラムを扉まで見送ると、彼は何か思いついたように立ち止まる。
「それともうひとつ」
「はい?」
「あのアサギという青年には、気をつけてください」
「え?」
 挙げられた名前に、ラティアリスはきょとんとする。セーラムは微笑むだけだ。
「遠目で見ておりましたが、あの方はしっかりした意思をもった、素晴らしい青年だと思います。けれど、その、そうですね。私はあなた様より何倍も人生を踏んでおりますが、だからこそ、彼の想いがわかってしまうのですよ」
「?」
 何を言われているのかわからないラティアリスは首をかしげるが、ラーラがずいっと前に出る。
「それに関しては、私が何とかしますので大丈夫です」
「そうですか、頼もしい限りですね」
 ラーラの強気な発言に、セーラムは声をあげて笑い、一礼してその場を辞した。
「なんのことを言っていたのかしら…?」
 ラティアリスには到底理解ができそうになかった。

***



 早朝にヴァレスを出発し、サイアルズに入れたのは次の日の日暮れだった。自国に入れたことに安堵したのだろう、兵士たちに緊張がとけた顔が広がる。
 サイアルズに入れたところで、一行は一夜を明かすことになった。ラーラの手を借りて馬車から下りる。
 沈む夕日を眺めながら、サイアルズに入ったことに、ラティアリス自身も安堵した。このまま問題なく王都につけば、ラティアリスはアルマリア王女としてサイアルズ王に嫁ぐことができる。
 そうすれば、条約の中でも最も重要な項目に線をひくことができるのだ。
「すぐに寝所と食事のご用意を致します。しばしお待ちください」
 イグレシオの気遣いに、ラティアリスは笑顔で応える。彼は本当に良くしてくれている。王の妃になる大切な王女というのもあるのだろうが、節々での気遣いは彼の内面によるものだろう。
「ちょっとお散歩してもいいかしら?」
「お供します」
 ラーラに尋ねると、彼女は是とも否とも言わない。それでも、彼女はついてきてくれるのでその好意に甘えることにした。
 一行が腰を落ち着けた場所は、木々が点々と立つ草原だった。沈みつつある夕陽が何の障害もなくラティアリスを包み込む。
「サイアルズに入ったといっても、景色ががらんと変わるわけではないのよね」
「もう少し北にいけば、少し肌寒いでしょう」
「そうなの?」
「はい」
 ラーラはこっくりと頷く。当たり前のことだが、ここはここにいるラティアリスや使者たち以外にとって母国になるのだ。ここがラーラや、セシリア、イグレシオ…そしてアサギの生まれた国だと思うと、なんだか胸のあたりが温かくなるのを感じだ。
「ラーラは北の生まれ?」
「私の出身は、コラテリアルになります。五歳頃に養父に拾われ、サイアルズで育ちました」
 ラーラの思わぬ告白に、ラティアリスは目を丸くする。みんながみんな、サイアルズの出身ではないということか。その上拾われたのであれば、彼女に両親がいないということだ。いやなことを思い出させてしまったと、ラティアリスは何と言っていいのか分からず戸惑った。
「ですが、私の母国はサイアルズだと思っております。事実、コラテリアルでの思い出はないに等しいですから」
 そんな彼女の思いを理解してか、ラーラは優しく言う。ラーラの心遣いをありがたく思いながらも、ラティアリスはただ微笑むしかなかった。
「ラーラに、兄弟はいるの?」
「はい。上に一人、下には五人ほど」
「まあ、大家族ね」
「養父は拾い癖のある人でして、よく孤児を見つけては引き取ってくるんです」
 困った癖です。とラーラは無表情だったが、どこか呆れたように言う。しかしそれにはどこか、父親だからこそ言えるような、そんな思いが感じられた。知らず笑みがこぼれる。
「ラーラはお父様が好きなのね」
「そう聞こえましたか?」
「ええ」
 正直に答えると、ラーラは首をかしげた。今の話でどうしてそうなるのか、わからないようだ。
 そんなラーラがなんだか可愛くて、やはり笑みがこぼれる。彼女は自分が家族のことをとても思っていることに自覚がないようだ。
「ねえ、ラーラ、ひとつきいてもいいかしら?」
「私に答えられることでしたら」
「レグシア様と会ったことはある?」
「…ええ、まあ、兄の主ですから」
「あら、そうなの」
 話題を変え、投げかけた問いは、どうやらラーラのお気に召すものではなかったらしい。どうしてかはわかないが、さっきまでとは打って変わって不機嫌そうだ。そんな彼女に戸惑いつつも、発せられた言葉に目を丸くする。
「ラーラのお兄様は、騎士か何かなの?」
「いいえ。強いて言えば密偵みたいなものでしょうか」
「み、みってい…?」
 ますます目を丸くするラティアリスに、ラーラは頷く。
「私たちの家系は、そういう者を多く輩出するのです。正確には養父がその家系の人間なのですが」
 思わぬ告白に、ラティアリスはついていけなくなりそうだった。けれどもそのような家系であれば、ラーラの身のこなしも納得できるだろう。しかし、そう軽く漏らしてしまってもいいものなのだろうか。
「そ、そうなの、一度会ってみたいわ」
「たぶん、会えると思いますよ。兄も会いたがっていましたから」
 ラーラの兄というからには、やはり無表情で無口なほうなのだろうか。向こうも会いたがってくれているというのであれば、会える機会はやってくるだろう。楽しみだ。
「えっと、それで話を戻すけれど、ラーラから見てレグシア様はどんな人なのかしら?」
「そうですね…」
 話題を戻すと、ラーラの眉間に深くしわが刻まれた。もしかして彼女と王は仲が悪いのだろうか。事実、最近になって――というかラティアリスを巡り―――仲が悪くなり出しているのだが、それをラティアリスが知るはずもない。
 しかしラーラも主が聞いてきているのだ。答えないわけにはいかない。心配するラティアリスをよそに、ラーラは口を開いた。
「『今』の陛下は、良識的で人格に多少問題がある気もしますが、割といい人かと思います」
「へ?」
 紡ぎだされた言葉を、ラティアリスは一瞬理解できなかった。なぜ『今』になるのか、セシリアとは違い過ぎる見解にもラティアリスに混乱を招く。
 そんな目を丸くしている彼女を置いたまま、ラーラは続ける。
「ですから、きっと姫様にもよくしてくださると思います。けれど、何かありましたらすぐに私にお申し付けください。それ相応の報復を致しますので」
「……」
「物騒なことを言うな、ラーラ」
 冗談かと思ったが、ラーラがあまりにも真剣な様子だったのでラティアリスは口の端を引きつったまま固まった。そんな二人の間に割って入ったのはアサギことレグシアだ。レグシアは少し苛立っているようだった。
「本当のことを申し上げただけです」
「だとしてもだ。下手をすれば反逆罪に問われるぞ」
「逃げおおせる自信がありますので」
「そりゃあ、お前なら逃げられるだろうが…」
 レグシアの忠告にもしれっとラーラは返す。レグシアもレグシアで、ラーラならやりかねないと言い返す言葉も見つからないようだ。気持ちを切り替えるように溜息をつくと、レグシアはラティアリスに向き直った。
「お食事の用意ができました。お戻りください」
「あ、はい、ありがとうございます」
 二人の攻防にあっけにとられていたラティアリスだが、話題を振られて我に返る。彼女は礼をするとラーラを伴ってその場を離れた。それにレグシアも続く。
「…姫は陛下のことが気になりますか?」
「え? あ、はい。夫となる方ですから…」
 レグシアの問うその声は、少し緊張を帯びていたがラティアリスは気づかず、苦笑いして答えた。なんだかレグシアにそう問われることがさびしく思えた。何故かはわからないが…。
「あの、アサギ様から見た陛下はどのようなかたですか?」
「え?!」
 その寂しさを振り払うように、ラーラと同じ質問をレグシアにぶつけてみる。レグシアはそんな質問をされるとは思っていなかったのか、驚いたように声を上げた。まさか自分自身について問われるとは思っていなかったのだろう。だが、ラティアリスは彼がその王だとは知らない。動揺したレグシアを不思議に思って首を傾げる。
「えーっと、あーそうですね…」
 何と答えていいのか分からず、レグシアは頬をかく。心なしか目は泳いでいた。
「ヘタレでヤラレです」
「!?」
 今度間に入ってきたのはラーラだ。やけにきっぱりはっきり言われ、レグシアはその秀麗な顔を崩した。
「へたれでやられ?」
「はい。それはもう救いようのないくらい」
 レグシアの代わりのラーラの返答の単語は、ラティアリスの辞書にはないようで首をかしげていた。その背後ではまだショックを受けているレグシアがいるのだが、ラティアリスは気づかない。
「なので、あまり気を許さないほうがいいかもしれません。頼りないですから」
「ラーラっ!」
 先ほど聞いた時の返答は内容が正反対な気もするが、ラーラは至極真面目だ。それはさっき言っていた『今』の陛下と関係があるのだろうか。色々思案していると、ショックから立ち直りつつあったレグシアが、半泣きになりながら叫ぶ。
「いっていいことと悪いことがあるぞ!」
「こういうことははっきり申し上げた方がいいと思いまして。姫様が変に期待を抱かれると、申し訳ないですから」
「お前、性格変わってきてないか? 兄貴に似てきてるぞ」
 けろりと応えるラーラに、レグシアは口端をひくつかせる。
「最高の褒め言葉ですね。兄ほどの図々しさがないと世の中やっていけないですから」
「頼むからあいつにだけは似るなっ!!」
 必死にレグシアはラーラに訴える。これらの会話からして、どうやらラーラの兄は大物らしい。ラーラに似て無口な人かと思ったがどうやらそうでもないようだ。
 そういえば、ラーラは初めてあった頃よりかなり話してくれるようになっている気がした。気を許してくれたのだろうと思っていたが、レグシアの反応を見るとそれだけではないようだ。
「ともかく、お会いするのが一番かと思います」
「そ、そうね…」
 青い顔のレグシアを無視して、ラーラはラティアリスに向き直る。確かに彼女の言うことも一理ある。話だけではやはり実態はつかめないし、手っ取り早く会うのが王を知る一番の近道だろう。
「楽しみにしておきます」
「………」
 ラーラの言葉に頷いたラティアリスを、レグシアは面白くなさそうに眺めていた。

***



「…なんか、今日は疲れたな」
「なんかあったのか?」
 日もすっかり沈んで夜になり、食事を終えたレグシアは自身の言う通り疲れた顔で木の根元に座していた。そんな兄のもとにやってきたセシリアは首を傾げる。
「色々」
「そうか。まあ、人生いろいろだしな」
 セシリアは深く突っ込まず、レグシアの横に座した。その両手にはコーヒーの入ったカップがあり、一方をレグシアに差し出す。礼を言って受け取った。
「サイアルズに入れたんだ。王都まであと二日半もすればつけるだろう。あと少しだ、頑張れ。あなたも久しぶりの長旅で疲れただろうに」
「まあな、城に詰めてるのが多かったし」
 レグシアはコキコキと首の関節を鳴らした。王位についたのは5年前、22歳のころだ。それまでは遠征やらなんやらで、長いこと馬に揺られることもあったが、最近ではあまりない。特に気の張った旅は久しぶりだった。セシリアやイグレシオはそれが仕事と言ってもいいので、この程度あまり苦ではないだろう。身体の鈍りを実感してしまい、溜息が洩れた。
 王女を迎えるにあたってオルアンナを知るいい機会だと、自身が直接赴いたが、あまり収穫らしい収穫もなかった。あったといえば襲撃やらなんやら受けたことだ。だがまあ、王女に会えたことはよかった。
「さて、王都に着くまで何も起こらなければいいが」
 一服し始めたセシリアを横目に、レグシアもため息をつく。あの日以来襲撃もないし、サイアルズに入ったのだからあちら側も目立った行動を慎むだろう。だが、問題は王都についてもあちら側が何らかの行動を起こす可能性があるということだ。
 警備をどれほど厳重にしても、賊というのは入り込む。王宮で暗殺されなかった王や権威のある者が今迄にいなかったわけではない。そしてそれに対し最も警戒するべきは使者だ。使者が刺客という可能性もある。
 特にゴドウィックという中年の男。ラーラの報告によれば、王女を無碍に扱っていたようだ。その理由が、必ず何かあるだろう。
 けれどもセーラムという老人は好印象だ。彼は礼を失することなく、けれども臣下としてやんわりと王女を諌めたという。だからこそ警戒するべきか否や。
 自分の寝首か、王女の寝首か。どちらを狙っているにせよ、笑えない話だ。
「あー早く帰りたい」
 考えることが多すぎて、レグシアはがっくりと肩を落とした。

 


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