第四章

(4)


「あの、どうかしたのですか?」
「気に、なさらないでください…」
 用を済ませて戻ってきたラティアリスが見たのは、どこかけろっとした表情をしたイグレシオと、四つん這いになって何かに必死にこらえているレグシアだった。
 だが、ラティアリスが戻ってきたことに気がついた彼はすぐさま立ち上がり、帰るなら送ります、と申し出てくれた。しかしその瞳に、うっすらと涙が見えるのは気のせいだろうか。
 イグレシオや他の兵士が見送り受け、今はラティアリスにあてがわれた部屋に戻る廊下を歩いていたのだが、やはり気になって声をかけた。それでもレグシアは、何らかの原因でうけたダメージを引きずりつつも首を横にしか振らない。
「イーグ様と、ケンカでもなされたのですか?」
「いえ、そういうわけでは…」
 ラティアリスの言葉に、やはりレグシアは首を横に振る。もしかしたら聞かれるのが嫌なことかもしれない。そう思ってラティアリスはそれ以上聞かないことにした。なんというか、彼がとても悲しそうだったからだ。
 そうこうしているうちに、ラティアリスの部屋にたどり着く。両開きの扉の片方をレグシアが開けてくれ、ラティアリスは礼を言って部屋へと入る。室内は真っ暗で、ラーラはまだ戻っていないようだった。中を少し確認して、レグシアに向き直る。
「色々と、ありがとうございました」
「いえ、とんでもありません。ラーラは、まだ戻っていないようですね」
「そのようです」
 部屋の暗さをみて、レグシアはそういい、何やらうんうんと考え始めた。
「どうされました?」
「あ、いえ、その…ラーラが帰っていないのであれば、お一人にするわけにも…」
 そういえばそうだ。ラーラがいないと自分はひとりになる。別にそれは構わないのだが、レグシアはそうは思わないようだ。確かに、王の妃となるものをひとりにするには気が引けるだろうし、万が一のことがあっても困るからだ。
「大丈夫です、そのうちラーラも帰ってくるでしょうし…」
「そういうわけにも…」
 気遣いをありがたく思いながらも、そう申し出るが、レグシアは納得できないようだ。彼の懸念ももっともだろう。ならばどうするべきか、ラティアリスも考えた。そしてひとつの名案が浮かぶ。
「でしたら、ラーラが戻るまでお茶でもいかがですか?」
 ガン!
「きゃあ! アサギ様っ?!」
 彼女の提案にレグシアはあいている扉に思いっきり頭を打ち付けた。ラティアリスは思わず悲鳴をあげて、アサギに手を伸ばす。その手がぶつけた頭に触れる前に、レグシアは彼女から一歩退いた。
「だ、大丈夫です…。せっかくですが、それはちょっと…」
「そうですか? 私、お茶を入れるのには自信があるのですが…」
 レグシアはそういう意味じゃないっ。と内心突っ込んでいたが、ラティアリスは残念ながら彼の真意を汲み取ることができずに、寂しそうに眉を下げた。しかし、先程のことがあったのに、この警戒心のなさは何なのだろう。思いっきり意識してない証拠だろうか。レグシアはちょっと泣きそうになった。
「姫、でしたらまたの機会に…」
「まあっ本当ですか?!」
 さびしそうな様子のラティアリスに気まずく思ったのか、レグシアが遠慮がちに申し出た。途端、ラティアイリスの顔が綻ぶ。薔薇が咲いたような柔らかな笑顔に、レグシアの思考回路は停止した。
 しかし、彼の様子に気づくこともなく、ラティアリスは嬉しそうにはしゃぎ始めた。
「サイアルズってどんなお茶があるんでしょうか? オルアンナとそう変わらないのですか? ああ、でももしかしたら東大陸のものもあったり…アサギ様?」
 全く応答のない青年に気づき、ラティアリスは首を傾げる。もしかして自分は何かやらかしてしまったのだろうか。不安になって長身のレグシアを覗き込む。すると、ブルーサファイアの瞳とまた眼があってしまった。
 先ほどのことが頭によぎり、動悸が始まり体は熱を持ち始める。飛び退こうとしたのは反射だ。だが、彼女が下がりきる前に、手首をつかまれてしまった。
「あ、あの、あ、アサギ様…?」
 彼の様子はただならない。ブルーサファイアの瞳がまたやけに輝いて、自分を見つめる。
また、何らかの恐怖にとらわれる。
あの時のように、彼の秀麗な顔が、ゆっくりと近づいて―――。
 ひゅんっ カンっ! 
「?!」
 ラティアリスにたどり着くまでに、彼の顔の横を何かがものすごいスピードで通り過ぎた。それはそのまま暗い部屋に飲み込まれ、何か堅い音を上げた。
「きゃあ! アサギ様っ!! 血が…!!」
 何が起こったのかわからなかったが、彼の右頬に赤い筋がついたかと思うと、つーっとまた赤い何かが流れ出た。血だ。
 ラティアリスは思わず悲鳴を上げたが、レグシアは青い顔でその頬に触れる。何かが飛んできた背後にゆっくりと振り返ると、ラーラと、彼女を羽交い絞めにしたセシリアがそこにいた。
「すまん、抑えきれんかった」
 セシリアは少し申し訳なさそうな顔でわびたが、ラーラは普段冷静な表情を崩し、ものすごい形相でレグシアを睨みつけていた。
「ラーラ! セシリア様もっ!」
「姫様を、離してください…っ」
「え? きゃあっ!」
 ラーラの言葉に、ラティアリスはレグシアに手首をつかまれていたことを思い出し、真っ赤になって慌てて振りほどく。羞恥のため、レグシアの顔をまともに見れなかったが、このとき彼は大変傷ついた様子だったとのちにセシリアは語った。
「お前…」
「姫様に不埒な行いなどしようとするからです…っ!」
 ショックから一生懸命立ち直りながら、レグシアは血が流れる頬を抑えつつラーラを睨みつける。ラーラも負けずと睨み返し、その背後では雷が鳴っていたとかいないとか…。
「あ、あの、とりあえず血を…」
 二人の間にただならぬ緊張が走っていることは――理由はわからないが――何となく理解できたが、レグシアの頬から流れ出る血が気になって、ラティアリスは持っていたハンカチで彼の頬を押さえた。自分よりかなり長身のため手を伸ばすことになったのだが、触れられたことに驚いたのかレグシアが目を見開いた。
「え、あの…」
「とにかく押さえてください」
 うろたえるレグシアに気付かず、ラティアリスは傷を抑えるよう促す。レグシアは言われるまま彼女の手の上から自分の手で、傷口を押さえた。それを見届けて、ラティアリスはそっと手を離す。
「傷の手当は、こちらでしよう。色々とお騒がせした、明日の朝にまた出発だ。ゆっくりと身体を休めてくれ。お休み」
「そうです、姫様。湯を浴びて身体をさっぱりさせましょう。雑菌もついてしまいましたから、洗い流さねば」
「ざっ!?」
「ほおれーいくぞー」
 呆けていた兄を引っ張って、セシリアは歩き出す。自分に向けられたラーラの言葉で我を取り戻したようだが、抗議もむなしくそのまま廊下の向こうに消えていった。
「大丈夫かしら…」
「問題ありません。殺しても死なないような人ですから」
 二人が消えていった方向を見つめながら、ラティアリスはつぶやくが、ラーラは容赦なく言い切る。
 サイアルズ国王に刃を向けて赦されるのは、後にも先にもラーラだけだろう。
 促されて入った部屋の正面の壁には、ナイフが一本刺さっていた。
 

***


「あの野郎…よくもまあ、元とはいえ主にナイフなんぞ投げつけられたもんだな」
「あやつの世界はもう姫を中心に回しているのだ。どうしようもないだろう」
 頬からそっとハンカチを放すと、血は止まっているようだ。綺麗な刺繍の施されたハンカチを見れば、当然のことながら血に染まっている。なんだか悪いことをした気分になった。
「仮にも俺は王だぞ」
「ラーラの世界であなたはありんこどころか、その辺に転がっている石に等しいんだろうな」
 手に握ったハンカチの八つ当たりのように言うと、セシリアが即答した。見えない何かがレグシアの胸を貫く。
「ひでぇ…」
「しゃーないだろ、やっと見つけた主が、男に取られることになるのだ。悔しいんだろうさ」
 子供が母親を取られるような感覚なのだろうと、セシリアは言う。確かにラーラには母親がいない。父親も実父ではなく養父だ。兄弟もすべて血が繋がっていない。彼女が何か庇護者的な存在に憧れを抱いている可能性もある。
 温厚な性格で、優しさに溢れたようなラティアリスにそれを求めてもおかしくないだろう。実際、彼女の何かがラーラの内面にヒットしたらしいし。
「その傷を見たら、イーグが卒倒しそうだな」
「……」
 青い顔をする従弟が簡単に想像でき、レグシアは何も言えなくなる。これは子供の喧嘩に刃物が持ち出されたようなものだと説明したら、納得してもらえるだろうか。いや、そもそも子供の喧嘩に刃物は必要ないだろう。出てくること自体問題だ。
「それにしても、あなたもあなたで大胆だな。あんなあからさまな行動をとるとは思わなかったぞ」
 セシリアは面白そうに笑って言う。先程の王女に仕掛けた行動のことを言われているのだとすぐに気づき、レグシアはバツの悪そうに顔を歪める。
「悪かったな」
「別に? 悪いことなんてないさ、ただ意外だっただけだ。あなたがあそこまで女性に迫るのは初めてみたからな」
 くすくすと、今度は嬉しそうに笑う。
 セシリアは、レグシアのすぐ下の妹だ。母親は違えど、割と傍にいた。おかげで彼の女性関係もそれなりに熟知しているつもりだ。彼はスキャンダルを恐れてか、色恋ごとから派生する問題を恐れてか、明確な恋人を作ったことがあまりない。いたとしても、そこに男女の恋愛があったかどうかは謎だ。
 欲を満たすには娼館を渡り歩いたみたいだし、そのさいには身分を隠すことを忘れなかった。
 そんな彼が、今更ながらにしても恋愛に目覚めたのだ。妹としては嬉しいことこの上ない。
「知らん、身体が勝手に動いたんだから…」
「ほう。これまた興味深い話だな」
 レグシアは深々とため息をつく。
 自分はそれなりに女性経験があると自覚している。女性を誘ったこともあるし、女性から誘われたこともある。しかし、それはすべて自分で意識して起こしている行動であって、無意識に身体が動くなど初めての経験だ。
 だだ、微笑む彼女が愛おしくて、自分に向けてくれる一つ一つの行為が嬉しくて、手に入れたいと思ったらあの有様。従弟にも言われたばかりだというのに…。
 だがまあ、事を起こせば彼女にどうみられるのか目に見えている。それだけは避けたい。
 長い長いため息をついて、自分を宥め、新たな決意を口に出す。
「自粛する」
「ま、がんばれや」
 応援の言葉の裏には「やれるもんならやってみれば?」と言っている気がしてならなかった。
 それに反発できない自分に、またため息が出る。
「だが、それの問題を簡単に解く方法もあることもないと思うが?」
「あん?」
 妹の言葉に、レグシアは眉をひそめる。
「あなたの正体を明かすのだよ。そうすれば、あなたの悩みも解決される。無理に正体を隠す必要もないだろうに」
「そういうわけにはいかない」
 セシリアの提案に、レグシアは即答する。一応、自分に考えがあっての変装だ。
「あの姫があなたにどうこうするとでも?」
「いや」
 レグシアは首を振って否定する。そして、窓の外の月を一身に見据えた。
「問題は使者の連中だ」

 


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