第四章

(2)

 つながれた手がやけに熱を持っているのは気のせいだろうか。
 これは自分自身の熱なのか、それとも彼の熱なのか。
 ただ彼の瞳の沈黙という言葉に、ラティアリスは何も言えなくなって、レグシアの後に続いた。
「あの、アサギ様…」
「………」
 ただただ無言で月の明かりが差し込む石の回廊を歩いていたが、ラティアリスは手から伝わる熱と、沈黙に耐えきれずに目の前の青年に声をかける。が、やはり振り向いても返事をしてもらうこともできない。
「アサギ様っ!」
 なんだか泣きそうになって、ラティアリスは声を上げた。と、彼が急に立ち止まる。
「ぶっ!」
 勢いでそのまま彼の背にぶつかってしまうが、レグシアはびくともしなかった。ぶつけた鼻をさすっていると、レグシアが手を放して振り返る。とても、申し訳なさそうな顔をして。
「…アサギ様?」
「すいません、少し大人気なかったですね…」
 レグシアはやたら深々とため息をついた。自分の行動を恥じているようだが、彼に恥じるところがあったのかラティアリスには理解できなかった。
「そうなのですか?」
 正直に聞くと、レグシアは目を丸くし、そして声をあげて笑いだした。
「あははっ! 姫は面白い人ですねえ」
「ど、どこがですかっ!」
 わからないから聞いただけなのに、笑うとは何と失礼な人なのだ。さすがにむっと来て彼を睨みつけるが、依然レグシアはおかしそうに笑う。
「本当に面白い人だ」
「……?」
 しばらく笑った後、彼はやけに落ち着いた瞳でラティアリスを見つめた。眼鏡の下のブルーサファイアの瞳が、月に照らされて一段と綺麗に輝いている。
「ちょっとくらい、自覚を持った方がいいのではないですか?」
「なんのですか?」
「そういうところですよ」
 問われた言葉の意味がよくわからなくて、首をかしげるが、彼は微笑んだまま言った。
 それは答えになっていない気もしたのだが、やけに優しく微笑むからラティアリスは何も言えなくなった。ただ、彼のブルーサファイアの瞳に魅入られる。
 ああ、やはり彼の瞳は美しすぎる。自分とよく似た色の瞳。けれども自分よりも数段明るい瞳…。
 このまま吸い込まれたい衝動に駆られたいことに気づいて、ラティアリスは慌てて我に返り、彼の瞳から逃れた。
「あ、あのっ」
「はい?」
 ラティアリスの突然の行動にレグシアは首を傾げたが、彼女は何かを問われる前に口を開いた。
「アサギ様は、とても剣がお強いのですね」
 なるべく自然に質問したつもりである。そう、なるべく。だが、レグシアは目を丸くしてきょとんとしていた。やはり苦しかっただろうか。そう思ったが、レグシアはすぐに苦笑いした。
「そうですか?」
「はい、私は剣のことはよくわかりません。ですが、アサギ様もセシリア様も、舞うように剣をふるってらっしゃいました…。まるで剣は身体の一部みたいに見えて…」
 レグシアが素直に聞き返してくれたので、ほっとし、素直な感想を述べた。先程の二人の姿を思い起こせば、自然と頬が緩み、感嘆の息をつく。
 するとレグシアは頭をかいた。心なしか頬の色が違う気がするが、月明かりでよくわからない。
「そのように言われるほど、私はそれほど剣の腕はよくありませんよ」
「そうでしょうか? キイス様は国でも五本の指に入るとおっしゃられておりました」
「大袈裟です。私以上に剣の腕が立つ者は、わが国に何人もいます。それに未だに師を越えることもできていません」
 レグシアは肩を竦めて笑う。レグシアの言うことが本当であれば、サイアルズという国は剣豪が集まる国なのだろう。さすが武の国だ。だが、キイスが言ったことが嘘だとも思えない。誇張はあるにせよ、確かにレグシアは剣の立つ人間に見えた。実際ラティアリスは彼に助けられている。飛んでくる矢をたたき落とすなど、常人にできると思えないが…。
 もしかしたら謙遜しているのかもしれない。なんだかそんな彼がほほえましかった。
「でも、とてもお強いのだと思います。アサギ様は私を助けてくださいました」
「姫…」
 微笑んだラティアリスに、レグシアの手が無意識に伸ばされようとした。
 だが、ラティアリスはそれに気づかず、今度は頬を赤らめてうっとりとした瞳になる。
「それにセシリア様もとってもお強いですわ。戦われておられるお姿は、とても勇ましくて素敵で……アサギ様?」
 女将軍の勇ましい姿を思い出し、ラティアリスは陶酔してしまう。ああ、なんて彼女は美しいのだろう。
 そう思って酔いしれていると、目の前の青年が少し前に出された拳を震わせ、俯いて肩を落としている。なんだろう、どこか悲しんでいるような、悔しんでいるような…泣いて、いるような…。
 心配になって声をかけると、レグシアはややあって、顔をあげた。それは笑っているようだが、口端がひきつっているようにも見える。
「あ、アサギ様? どうか、されましたか?」
「いいえ、なんでもありません。色々あっただけです、色々」
「はあ…」
 レグシアがあまりににっこりと笑うので、ラティアリスはそれ以上何も言えなくなった。なぜかそれが、彼の不機嫌を表しているような気がしてならなかったのだ。
 とにかくラティアリスは新しい話題を出そうと考えを巡らせた。彼の笑みに耐えられなくなっていたからだ。
「えっと、アサギ様とセシリア様は何度も手合わせをされているのですか?」
「ええ、小さいころからずっとです」
「…いくつから剣術を学ばれているのですか?」
「そうですねぇ…はっきりしたことは覚えていませんが、周りの話では三歳のころには剣を持っていたそうですよ」
「さ、三歳?!」
 びっくりして思わず声をあげてしまう。オーリオも幼いころから剣術を学んでいたが、七歳かそれぐらいだと言っていた気がする。驚いたラティアリスを見て、レグシアは笑った。
「別におかしいことじゃないですよ。私たちの国は武に重きを置いています。ですから、王族に連なるものなら当然なことなんです」
「じょ、女性の方もですか?」
「ああ、セシリア殿のことですね。彼女は特別です。現王であられる兄君と、弟君の手合わせを見ていて自分もやりたいと言い出したのがきっかけですよ。とはいっても、女性も望めば武を学び、兵士になることも可能です」
 レグシアの言葉に、ラティアリスは茫然となる。オルアンナでは女性が剣を学ぶことなど許されなかった。女性は淑女として、男性に尽くさなければならない。身体を動かすことで許されるのは、馬術程度であった。しかし残念ながら、ラティアリスは馬術すら学んではいない。
「…私も、学んだほうがいいのでしょうか」
「あ、いえ、その、望めば、ですよ。女性の場合、強制ではありませんから」
 武の国に嫁ぐのであれば、側室とは言えそれなりに武に長ける必要があるのではないだろうか。そう考えだしたラティアリスに、レグシアは諌めるように慌てて言った。
「ですが…」
「とにかく、姫は別によいのです。陛下も強要などされませんから…」
 えらく強く説得される様に言われ、ラティアリスは渋々ながらも頷いた。すると、レグシアはほっと息をつく。そんなに安堵されるほどのことなのだろうか。
 訝しく思っているのに気づいたのか、レグシアは慌てて話題を戻す。
「そうそう、セシリア殿とは何度も手合わせしていますよ。それで…」
「あ、はい。それで先程、セシリア様はアサギ様に一度も勝ったことがないような言い方をされていたので」
「ああ、それは事実ですよ」
「そうなんですか?」
 驚いて目を丸くすると、そんな彼女の様子に機嫌をよくしたのかレグシアは微笑んで話を続ける。
「ええ、剣を学び始めた時期もあるのでしょうが、私は彼女に負けたことはありません。まあ、それにヤケを起こして足とか出してくるのですが…」
 レグシアはふうと、溜息をつく。どうやら彼女の足癖の悪さは、今に始まったことではないらしい。まるでその様子は女性としての将来を心配する兄か父のようだ。実際レグシアは彼女の兄だが、ラティアリスが知る由もない。
「まあ、今回はちょっとやり辛かったですね。剣がいつもと違いますから」
「やっぱり、ご自分用の剣があるのですね」
「ええ、手に馴染んだものでないと使い辛いですね。実のところ、それだけではないんですが…」
「と、いいますと…?」
 首を傾げると、レグシアは苦笑いして手に持っていた剣をゆっくりと抜き放った。それを見てラティアリスは目を丸くする。抜き放たれた剣は、オルアンナで使われているような両刃のものではなく、片刃のものだった。昼は剣に目などいかなかったから気付かなかった。
「初めてみました…」
「まあ、珍しいものかもしれませんね。片刃の剣はサイアルズの王族に連なる者に与えられるものなのです」
 初めてそれを目にして呆けるラティアリスに、レグシアはおかしそうに笑った。
 その刀剣は、人を斬ったとは思えないほど月明かりに照らされ美しく輝いている。
「この大陸では、ほとんどが両刃ですが、わが国のこの片刃は海を渡った東の大陸から伝えられたものだとされています」
「…サイアルズの建国に大きく尽力したのが、東の大陸の方だと伺いました」
「姫はとても勉強熱心ですね」
「せ、セシリア様にお聞きしたのです」
 とても優しく微笑まれ、ラティアリスは思わず頬を赤らめて慌てて言う。するとレグシアの片眉がぴくりと動いた。さっきの不機嫌を思い出して、ラティアリスは知らず一歩退く。
「? あ、アサギ様?」
「いえ、なんでもありません。気になさらないでください」
 レグシアはそう言って息を吐く。気持ちを落ち着けているようにも見えるが、なぜそうしているのかラティアリスには見当がつかなかった。
「えーっと、そうそう建国に尽力したのは東の大陸の者です。サイアルズの建国王ヴィリオーリは東大陸の武人…そこではサライというそうなのですが、そのサライに剣術やさまざまな武術、戦略を学び、当時大陸を支配していたコラテリアルに勝利して国を建てたと伝えられています。本場とは柄などが違うそうですが、サライが使っていたのがこの片刃の剣なんです。まあ200年以上前のことだから、正確なことはわかりませんけど」
 レグシアの解説に、ラティアリスは聞き入った。
 粗方セシリアからきいていたが、剣のことまでは教えてもらっていなかったのだ。そのような建国伝説があるのであれば、サイアルズが武の国と言われる由縁も知れる。
「オルアンナは天使が舞い降りてできたと聞いていますが…」
「伝説ですけど、そう言われていますね」
 剣を鞘に戻し、剣帯に戻したレグシアの問いに、ラティアリスは苦笑いする。
 オルアンナはだいたい250年ほど前にできた国だ。昔、まだオルアンナという名がないころ、コラテリアル帝国に苦しめられていた民たちのもとに一人の天使が舞い降りた。銀の髪と藍色の瞳をもつ天使は民たちを率いてコラテリアルの軍勢を打ち負かし、そこにオルアンナという国を建てたという話がある。
「その天使の容姿を王族だけが受け継ぐことを許された、という話ですが、実際はよくわかりません」
 そう言ってラティアリスは自分の腰まで伸びた髪をひと房掴む。この銀の髪も、藍色の瞳も、神聖なものとされている。だが、身分が特別なものであるなら、自分には受け継がれるはずのなかった代物だ。ということは、やはりただの遺伝なんだろうと思う。
 けれども兄や姉、他の兄弟や貴族たちはそれが納得できないのだ。象徴というものは神秘的でなければならない。
「姫のその髪と瞳も、天使から受け継いだもの、ということですね」
「ただの伝説です」
 ラティアリスは苦笑いする。この髪も瞳も本物だ。けれども自分は、唯一天使の特徴をそのまま受け継いでいると言われているアルマリア王女ではない。目の前の青年や、セシリア、ラーラやイグレシオ達にも嘘をついていることを思い返し、心苦しくなった。
 その思いを顔に出すまいとラティアリスは、自然と俯いていた。
 自分は何をやっているのだろう。国のため、民のため、オーリオたちのためにと嘘をついてここまで来た。サイアルズに対し嘘をつくことに、それ相応の覚悟を持ってやってきたはずだ。
 命令を下された時から決意していたはずだというのに、サイアルズの人たちがあまりにもよくしてくれるから、優しい人たちだから、罪悪感がさらに増す。
 自分はあまり強い人間ではない。この不安に押しつぶされる日がいつか来るかもしれない。だが自分はアルマリア王女として、なすべきことをなさなければならない。
 俯いていると、何かが自分に差しだされた。驚いて顔をあげると、自分の髪をひと房掴んだレグシアがいた。
「?!」
「本当に綺麗な髪ですね。天使から受け継いだといわれても、納得できる」
「――――っ!!」
 突然の彼の行動に、ラティアリスは口をパクパクさせて真っ赤になった。親兄弟でない男性に髪を触られるという行為は初めてだ。経験のないことに、ラティアリスはパニックになって固まった。
 そんな彼女の様子を分かっているのか、いないのか、レグシアはそのひと房の髪を愛おしそうに親指でなでる。そのブルーサファイアの瞳が、優しさと妙な色香を漂わすから、ラティアリスはもうどうしていいか分からなくなった。
「ああ、でも」
 レグシアは妖艶に微笑む。
「姫のその美しさも天使のようだ」
「!?」
 甘く微笑んで吐いたセリフを彼の妹が聞いたら、さぞかし青い顔で軽蔑したような眼差しを向けたことだろう。だが、言葉を贈られたラティアリスは違う。そのようなことに免疫がない。レグシアのように容姿が整った男性に、甘い眼差しも、甘い言葉も向けられたことなど一度もないのだ。
 そして依然真っ赤になって固まるラティアリスのそのひと房の銀の髪を、レグシアはゆっくりと自分の口元に運び、優しく口づけた。
「!!!???」
 神経の繋がっていないはずのその髪から異様な熱が伝わり、ラティアリスは反射的に飛び退いた。ひらりと髪が、レグシアの手からすり抜ける。
 何とか動くことができたラティアリスだが、胸の前で手を組んだ状態で結局固まったままだった。その表情からは困惑が見て取れた。
 レグシアは髪を掴んでいた自分の手を、少し残念そうに見つめる。しかしすぐに視線をラティアリスに戻し、目があった。反射的に彼女の身体がびくんと跳ねた。心臓の音がうるさく響く。
 そんな彼女の様子に、レグシアは微笑んで足を進める。短い距離は簡単に詰められ、長身の彼がラティアリスをまるで月から覆い隠すように立った。
「姫…」
「―――っ」
 レグシアはラティアリスのすぐ横の壁に手をつき、彼女の顔を覗き込むように身をかがめる。微笑みは消え、真剣な秀麗な顔立ちが目の前に迫り、ラティアリスは声すら出ない。
 それだけではない。窓から離れ、月の光も彼の背によって遮られているはずなのに、ブルーサファイアの瞳がやけに輝いて見えた。美しいその色に、ラティアリスは引き込まれそうになる。
 何かがまずい、とラティアリスの頭の中で警鐘が鳴る。
 本来なら、こんなことあってはならないはずだ。ラティアリスはたとえ偽物であろうとも、サイアルズ国王の妃となる王女。この様な事態にあってはならないはず。
 けれども、ラティアリスはそこまで頭が回っていなかった。この状況は未知の世界で、経験のないことで、どう対処していいか分からない。この状態が怖かった。何者かに襲われる恐怖ではない。命を狙われる恐怖ではない。ただ、海色――ブルーサファイアの瞳に飲み込まれることが―――怖かった。
 それを悟った瞬間、ラティアリスは俯いて声を上げた。




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