第三章

(4)


「まあ、アサギ様」
 にっこりと微笑めば、まるで淡色の薔薇の花を咲かせたような印象を受ける。それに見惚れ、呆けてしまったことに気づき、レグシアは首を振ってアサギとして歩みを進めた。
「そちらに行ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
 微笑まれるたびに、胸が高鳴るのを感じる。まったく、三十路近くなったというのに、まるで思春期の男子のようだ。許しを得たレグシアは王女の横に、少し間を開けて腰をおろした。
「こんなところにお一人ですか? ラーラは…」
「ラーラさんなら、どこか近くにいらっしゃるそうです。一人になりたいといったら、ここに連れてきてくださいました。呼べばすぐに来るからと…」
「そうですか…」
 傍を離れるなという命を下しておいたが、一応守っているらしい。彼女は気配を消すのがうまい。少し集中すれば、ラーラの気配が読み取れた。
 こういうことに関して彼女はエキスパートだ。普段あまりに感情の起伏が薄すぎるのが玉に瑕だが…。
「アサギ様はお散歩ですか?」
「ええ、まあそんなところです」
 本当のところ、妹にからかわれすぎ、やけになって歩いていただけなのだが、そこは笑顔で隠した。王女は別段不思議に思った節もなく、そうですかと頷く。
「姫はどうしてお一人になりたいと?」
「…家族のことを思い出しておりました」
 視線を泉に浮かぶ月に向けながら、王女は答えた。藍色の瞳が、つられる様に揺れているのがわかる。その瞳に引き込まれそうになるのを、レグシアはぐっとこらえた。
「こうやって月を見上げれば、きっと私を思ってくださっている家族の目にも、この月が映っているのだろうと」
 王女の藍色の瞳に、本当の月が綺麗に映し出された。
 レグシアもつられる様に月を見上げる。相変わらず、月はそこにあった。
「月や太陽、空や風は、たった一つしかないものだと聞いたことがあります。そのひとつを共有していると思えば、私は勇気がわいてきます」
 そう言って王女はレグシアに微笑んだ。
 あまりに澄んだその笑顔に、レグシアは息を呑んだ。彼女はまるで何もかも受け止めているようで、何もかも諦めているようなそんな印象を受けさせた。
 それは、オーリオのことだろうか。たった一つを共有したい相手とは…。レグシアの中に、なんとも言い難いものが渦巻いた。
「姫は…姫はどうしてサイアルズへ嫁すことを、了承なさったのですか?」
 その言葉はレグシアの口から自然と出ていた。自国を攻めてきた敵国に嫁ぐというのに、この落ち着きようは何だろうか。この、諦めようは、何だろうか。
 足掻きはしないのだろうか。
 王女は少し目を丸くしたが、やはりただ微笑んだだけだ。
「それが、私に与えられた役目なれば、私はそれに従いましょう。お兄様が、私に課した使命なのですから」
「兄上の命令だから、従うのですか」
「ええ、兄は私の言葉に耳を傾けてくださらないことは、先日言ったとおりです。ですが、兄はやはり兄。命をくださったことに、光栄だと感じております。それに、国のために役立てることが、何よりも嬉しいのです」
 前も言いましたね、と王女は朗らかに笑った。
 どうしてこの王女は自分をこうまで惑わすのか。どれが本当の王女なのか。
 やはり彼女は『偽物』なのか―――。
 だが偽物にしろ、オーリオとはただならぬ関係だ。それが、レグシアに悔しさに似たものがこみ上げさせる。
「アサギ様?」
 黙ってしまったレグシアに、王女は心配そうに声をかける。
 レグシアは軽く首を振った。
「あなたは、強い方なのですね」
 レグシアの言葉に、王女は目を瞠った。だがすぐにおかしそうに笑う。
「そんなふうに言われたのは初めてです」
「そうですか?」
 なんだか笑われたことにむっと来て、レグシアは眉を寄せた。けれども王女は笑い続ける。
「ええ、そうです。私は、自分が強いなんてこと思ったこともありません。むしろ、弱い人間なのかもしれませんね」
 そう言って王女は月を見上げる。
 その横顔を眺めながら、レグシアは奇妙な感覚にとらわれた。それがあまりに美しいからか、彼女の言動が噂と一致しないからか。
「私はずっと、守られて生きてきました。父に、母に、兄に…兄弟たちに…。私はいつも彼らの背に隠れ、嫌なことから逃げていました。悪意の目を向けられることは、仕方ないと思いながら、それでも逃げていたのです」
 どうしてそんなことをいうのか、レグシアには見当がつかない。けれども王女があまりに優しく微笑んでいるので、問うこともできなかった。
「そんなふうに守られることが普通になっていた気がします。でもこうやって、サイアルズへ嫁ぐこととなって、彼らと離れ、思い返してみると、自分がいかに甘えていたか自覚させられました」
 月の光によって輝く藍色の瞳は、やはり昨日の夜を思い出させる。
 昨夜、レグシアは宴を抜け出して王女の元へ行った。そこには月を見上げる彼女がいて、また、昼よりも晴れやかな顔をしていた。オーリオが何か言ったのか。いや、きっとそうなのだろう。オーリオと接する王女は、とても嬉しそうだった。
「甘ちゃんというやつですね」
 どこでそんな言葉を覚えたのだろうか。王女は楽しそうに笑う。
「…姫には、兄弟がたくさんおられると聞きましたが」
 彼女の中にはオーリオがいる。その考えを追い出そうと、レグシアは何とか話題を変えようとした。だが、なんとか振り絞って出したものも、オーリオにつながるものだった。どうも要領が悪い。
 話題を変えられたことに、王女は目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「私を含め、12人です。ほとんど、お母様が違うのですが…」
「仲は…」
「いい方と、あまり良くない方がいますね。半分とは言え血がつながっていても、話したことがない者もいますから」
 少し残念です、と王女は苦笑いした。
 さらりと答える彼女の言葉に迷いはない。アルマリア王女でなければ、彼女はいったい何者なのだろうか。何度も思案した考えが、頭をよぎる。すると、王女がアサギの顔を覗き込んだ。
「アサギ様に、御兄弟は?」
 そう話を振られ、レグシアは正直に言うべきか考えた。だがまあ、あまり支障はないだろう。思い浮かべるのは、自分をからかってばかりの、すぐ下の妹だった。
「私もたくさんいますよ。私は長子なのですが、すぐ下の妹や弟は、私を兄として扱ってはくれません…」
「と、いいますと…」
「…私で遊ぶんですよ。反応が素直だとか言って…」
「まあ、仲がよろしいんですね」
 バツが悪そうに言うと、王女は嬉しそうに微笑んだ。いや、だからなぜそこで仲がいいとなるのだろうか。まあ確かに、悪いとは思えないが。
 レグシアには王ゆえに、たくさんの兄弟がいる。同母の兄弟は一人もいないが、年の近い兄弟たちは昔からよく遊んだりもした。とはいえ、レグシアの場合、王妃である母の目を盗んでだ。
 母はもうこの世にはいないが、どうもプライドが高く、嫉妬深い女性だった。側妃たちを毛嫌いし、その子供たちをも疎んだ。母はレグシアにもそれを課したのだ。守ったためしはなかったが。
「そうでしょうか…」
「ええ、私の兄と、弟は、母が違うがためか、仲が良くありません。会えば皮肉のいい合いですし、そこには侮蔑と憎悪が含まれています」
 仲良くは、できないみたいで…。王女はさびしそうに微笑んだ。その笑みは、恋人を思うというより、単純に兄弟仲を心配しているようにも見える。
「お二人の仲については、私の国にも聞き及んでいますよ…残念なことですね…」
「ええ、本当に」
 王女は瞳を閉じる。彼女は今、何を想うのか。
 知りたいようで、知りたくはない…。
 瞼を閉じる彼女は、あまりに綺麗で、レグシアは無意識のうちに身体を動かしていた。
 手が彼女に伸ばされる瞬間、ぱちりと瞼を開けた。
「!?」
 それに驚いて、レグシアは慌てて手を引っ込める。
「今、何時かしら」
 レグシアの動揺に気づくことなく、王女は上着を探った。
「(あぶね―あぶねー!! 俺今何しようとした?!)」
 胸を抑えると、動悸が激しい。意識とは関係なく動いた自分の行動に動転していたが、ふと王女が取り出した懐中時計に目を奪われた。
 見事な銀細工が施されたものだ。ハンターケースには美しいバラが刻まれてある。開けば、長針、短針は薔薇の弦が綺麗に絡み合っているようなもので、文字盤も丁寧に彫りこまれてある。時間は夜をさしていた。その精巧な作りに、レグシアは目を瞠った。
「あらもう、こんな時間なんですね」
「…とても綺麗な時計ですね」
「え? ああ、はい。これは父が母に贈ったものです。母が亡くなる際に、譲り受けました」
 私の宝物です、と王女は微笑む。あまりに嬉しそうに微笑むから、それがどれだけ大切か、充分に知れた。
「そんなにも大切に思われて、きっと母上も、喜ばれていることでしょう」
「ありがとうございます」
 彼女は、本当に嬉しそうに微笑んだ。それがどうしてか眩しくて、レグシアは知れず、目を細めた。

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