第三章

(3)


 夜になって隊は、森の中に身を落ち着くことを決めた。サイアルズ領内に入るには、まだ一週間ほどかかる。
 兵士たちは自分たちにあてられた仕事をてきぱきとこなしていく。ラティアリスは何もせずにただ眺めているしかなかった。
 この場所に着くまでに、ラティアリスはセシリアやラーラからサイアルズについて様々なことを教わった。歴史や習慣、現状、国民の様子。
 元々、ラティアリスは勉学が好きだった。自分の知らないことを知れるということは、とても面白いことだからだ。だから夢中になって耳を傾け、いくつか質問もした。
 セシリアはそのつど快く丁寧に答えてくれた。
 ラティアリスの中に渦巻く不安も、少しずつ解消され始めている。
 用意された椅子に座っていたラティアリスとセシリア、そして立っていたラーラの元に、イグレシオがやってきた。彼は一礼して微笑む。
「寝所のご用意が整いました。どうぞ、こちらへ」
 イグレシオに促されて、ラティアリスはついていった。少し歩いた先には、テントが用意されていた。周りのテントよりも、かなり大きめで立派なことが一目でわかる。
「どうぞ、姫。ここが今日のあなた様の寝所となります。何分簡易なものですので、居心地はいいとは言えませんが、ご容赦くださいませ」
「いえ、そんなことはありません。わざわざこんな立派なものをご用意していただき、大変恐縮です。ありがとうございます」
 ラティアリスは素直な感謝の言葉を述べて、イグレシオに一礼する。彼は少し面を食らったようだったが、すぐに微笑んだ。
「そう言っていただけると、光栄です。何か不都合なことがございましたら、すぐにお申し付けください」
「何から何まで、ありがとうございます」
 ラティアリスは大切な客人だ。だからこその対応なのだろうが、親切にしてもらえることが、ラティアリスは嬉しかった。それに、ここの人たちは本心から丁寧に接してくれているのがわかる。
「食事もすぐにお持ちいたします。お口に合えばいいのですが…」
「ええ、楽しみにしております」
 イグレシオは先導するようにテントの中に入り、ラティアリスやセシリアたちも続いた。
 目の前に広がった光景に、ラティアリスは思わず目を剥いた。テント内とは思えない広さと、しっかりした天蓋付きのベッドとテーブルに、草原の上には絨毯が敷かれていたのだ。
「まあ、とても立派ですね…大変ではないですか?」
「大丈夫ですよ、これは王族の旅用に使われるテントで、見かけだけで組み立てるのは簡単なんです」
 だからそんなに気を使っていただかなくても大丈夫ですよ、とイグレシオは微笑んだ。
「そうだぞ、姫君。あなたは側妃とは言え、王の妃になられる方だ。そんなに周りを気にしなくても、堂々と振る舞ってもよいのだから」
「そうでしょうか…」
「ああ。まあ、あなたらしいといえば、あなたらしいがな」
 くすくす笑うセシリアに、ラティアリスは首をかしげる。そう言われても、わざわざこんな立派なものを毎日組み立ててもらうわけなのだから、悪い気がしてならない。
「そうだなあ、まあ貴方が気になるというのであれば、私もこのテントで寝泊まりしてもいいだろうか?ベッドなんか、二人一緒に寝ても余るくらいの広さだ、丁度いいんじゃないのか?」
「え?」
「実は私用にもテントをこさえてもらっているんだが、明日から一緒に寝ることにすれば、兵への負担も少しは減るというものだ」
 セシリアの提案に、ラティアリスは目を丸くするが、確かにその通りである。それに王族の人間が寝泊まりするというのであれば、テントを組み立てた兵士も本望だろう。
「それとも私と寝るのは嫌かな?」
「い、いえ!そんなことはありませんっむしろ光栄ですっ!」
 少し寂しげに微笑まれ、ラティアリスは慌てて首を振った。こんな美しい女性と一緒に寝ることができるなんて、嬉しいことこの上ない。それに、昔はカリルローラやマリアンナと一緒によく寝たものだ。
「じゃあ決まりだな。明日からそうするよう伝えといてくれ」
 すると打って変わってセシリアは嬉しそうに微笑んだ。どうやらこの展開を予想していたらしい。言伝を頼まれたイグレシオは、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだその顔は」
「いえ、大丈夫ですか? セシリア様はその…」
 イグレシオは何か思いつめたように、そっと目線を逸らす。その態度に、セシリアはむっとなる。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「…寝相が悪いと、あの方から聞き及んでいますし、その…オルアンナで使ったのベッドを破壊したでしょう…?」
 イグレシオは王女に聞こえないように、こそこそとセシリアに耳打ちする。
 六将軍紅一点のセシリアの寝相は、破滅的に悪い、と彼女の兄が愚痴っていたのをイグレシオは思い出す。しかも、昨日使ったオルアンナのベッドを彼女は見事に大破させたのだ。オルアンナは弁償はしなくても構わないと言ってくれたが、さすがにあの無残なベッドを思い出せば、王女を隣で眠らすなど心配で仕方がない。
 だが、セシリアは退かなかった。
「あれはちょっとベッドが合わなかっただけだ。私の寝相が悪ければ、自国のベッドなど毎日変えねばならないではないか」
 踏ん反り返って強い口調で言う。
 基本、彼女は我を通す。イグレシオは口で勝てたことがないし、また、勝つ気もない。それにこれはわざわざ主の伺いを立てるようなことでもないし、溜息をつきながら了承の意を示した。
「わかりました。勝手にしてください。でも、なんでそうあの人が拗ねるようなことばかりするんですか?」
「狙っているからそうするんだよ。それに、こんな美しい姫君と夜をともにできるなど光栄なことではないか」
 とばっちりを食うのは自分だ、とセシリアから少し距離をとったイグレシオは不機嫌そうに言うが、セシリアは愉快そうに笑うだけだ。
「だからなんでそういうセリフを言うんですか。まったく、知りませんよ、私は」
「いやあ、楽しみだなあ」
 頭を抱えるイグレシオと、楽しそうなセシリアを交互に見比べながら、ラティアリスは首を傾げた。二人がなんのことを、誰のことを言っているのか皆目見当がつかない。
「どういうことでしょうか、ラーラさん」
「…たぶん色々とあるんではないでしょうか」
 質問をされた侍女は、無表情で淡々と答えた。


***


 アサギことレグシアは、隊が駐屯するところから少し離れた泉近くに立っていた。
 少し欠けた月が、夜の色で黒光りする泉に映され揺れている。その場にじっとしていたが、背後に気配を感じ、振り返った。
「そこに隠れてないで出てきたらどうだ。なにをこそこそしている」
「おや、一応気配を消していたつもりなんだが」
 楽しそうに笑いながら、茂みから出てきたのは彼の妹だった。
「バレバレだ」
「それはそれは、私もまだまだということかな」
 彼女がゆっくりと近づいてくるを眺めながら、レグシアはその袖から小さなナイフを取り出し、そのままセシリアに向かって投げた。
 セシリアを捕らえたかに見えたナイフは、彼女の顔の横を通り抜け、茂みに消える。その瞬間、うめき声が聞こえ、何かが倒れこむ音がした。
「余計なもん連れてくんな」
「ちょっと困ってたんだ。あしらおうと思ってこっちに来たらあなたがいたんだよ」
 怒気を含めた声にも、セシリアは動じなかった。兄に叱られるのは慣れている。
 倒れこんだものに、興味が失せたようにセシリアは口を開いた。
「しかし、こんなところに一人でいたら、またイーグが胃を痛めるぞ?」
「すぐ戻るつもりだったんだ。別にいいだろう」
 つんと顔をそらした兄を眺めながら、セシリアはまたすぐに話題を変えた。
「前々から思っていたんだが、その眼鏡、やめた方がいいんじゃないのか? 根暗に見えて仕方ないぞ」
「うるさいな。眼鏡は変装にちょうどいいんだよ」
「だが、黒ぶちはなあ…」
 セシリアは兄の顔をしげしげと眺める。縁は細いものだが、前髪が長い分とても根暗に見える。顔の良さでそれを何とか補っていた。
 だが、これはわざとしているものだ。目自体はよい方であるから度は入っていないし、元々眼鏡を必要としていない。けれども何かアクセントを一つ加えるだけで、顔の印象はがらりと変わる。何と言われようとレグシアはそれを狙ってやっているのだ。
「そんな根暗な顔では姫にひかれるぞ?」
「なっ…!」
 妹のきっつい一言に、レグシアは声を上げそうになるが、そんな兄を無視してセシリアはあっけらかんと話を続けた。
「そうそう、姫といえばな、実は彼女と一緒に寝ることにしたんだ。同じベッドで」
「………大丈夫か?」
 セシリアの告白に、レグシアはものすごく怪訝そうな顔をした。その顔は若干青い。
「なんだその心配は」
「いや、お前寝相よくないだろ」
 オルアンナからサイアルズへ発つ前日の晩のことを思い出す。レグシアはその時、妹に殺されかけたのだ―――寝相で。
 だが、セシリアは不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「イーグにも言われたが、あれはただ、ベッドが合わなかっただけだ」
「なら、なおさら一緒に寝たらダメだろ」
 用意されているものは、当然自国の愛用しているベッドではない。となると、王女がセシリアの犠牲になることは、十分にあり得るのだ。あの晩、レグシアが回避できたのは熟睡しなかったのと、持ち前の武の腕前があったからこそだ。王女にそんな芸当ができるとは思えない。
「問題ない。さすがに敵国の領地で熟睡できるほど、神経は図太くないからな」
「お前、オルアンナの城で熟睡してたじゃねーか」
 ひとの隣でぐーすか寝ていた妹を、恨みがましく睨みつける。だが、セシリアは涼しい顔で、「あれはあなたが隣にいたからだ」と言い放った。
「でなければ、安心して眠れるものか」
「…なあ、普通、俺は逆に守られる立場じゃないのか?」
 一応、自分はサイアルズの頂点に立つ人間だ。今、自分には世継ぎとなる子供はいないが、王位継承者候補は自国にたくさんいる。だから、自分に何かあっても後継ぎ問題がそこまで深刻になりはしないと思うが(多少いざこざはおきるだろうが)、守られるべき人間であることは確かだ。まあ、自分も、守られる立場ではあるが、正直自分の身は自分で守るといった考えの持ち主だ。かといって、こう、堂々と宣言されるのも…。
 だが、彼女はまたも言い放つ。
「兄が妹を守るのは当然だろう?」
 そうきたか。
 全身に脱力を感じたが、もう何を言っても無駄だとレグシアは結論付けた。それでその話はお終い、とばかりに、セシリアは口を開く。
「姫を狙う輩がいないとも限らないしな。護衛も兼ねてというわけさ」
「それはいいが、姫にも警戒しろよ」
 そんなことないとは思うが、もし逆に寝首を掻かれるなんてことがあったらたまったもんじゃない。一応セシリアも分かっているのか、肩をすくめて答えて見せた。
「だがまあ、一番の目的は姫の隣で寝ることだ。あんな美女…というよりは美少女だな――侍らすなんてそうできるもんじゃないぞ」
 爆弾発言をした妹を、レグシアは半眼でにらみつける。セシリアが言うことは、どこまで本気で、どこまで冗談か、兄であるレグシアにすら理解できない。しかもなんだ、侍らすって。
「そう睨むなよ。姉になる人の好感度を上げようとするのは当然だろ? ただでさえ、彼女は向こうではひとりなんだから、安心させてあげるのもまた妹の務めだ」
「どうだか、ただ俺で遊んで楽しみたいだけだろ」
「それもある」
 きっぱりはっきり言った妹に、レグシアは口端をひくつかせた。この妹は、どこまで兄で遊べば気が済むのだ。しかし、妹の期待している通りの反応を返してしまう自分も自分だ。
「彼女は素晴らしい姫君だな」
「と、いうと?」
「国を傾けた張本人とまで言われている割に、人に気遣ってばかりだし、礼儀正しく感謝を忘れることもない。あとサイアルズについてもいろいろと聞かれた。歴史や慣習、国民の様子なんかもな。あなたがわけがわからないといった理由がよくわかるよ」
 今日初めて話した王女を思い出しながら、セシリアは話し続けた。
「イーグの話によれば、城下町をでるとき、スラム街あたりの住民を見て申し訳なさそうな顔をしたそうだ。自分が苦しめたというのに、我が事のように辛い顔をしてな」
 レグシアもセシリアと同様に、王女のことを思い返した。優しい笑顔、優しい心。彼女は、噂とはほど遠い人物だ。セシリアの言葉の裏には、自分の考えていることと同じ意味合いが含まれていた。
 それは、イグレシオと話していたことと同じことだ。
 レグシアが答えをあぐねていると、セシリアはそれを断ち切りように、異様にきっぱりと言った。
「だが、私としてはあのような者が姉になるほうがいい。噂通りの姫君が来てみろ、今度はこっちが傾くぞ」
「それもそうだな」
 苦笑いして頷くと、セシリアはレグシアの横に立って月を見上げた。
「可能性がないわけではなかったが、まさかこうも分かりやすい姫を送ってくるとは驚きだったな」
「まだ確定ではないぞ、一応」
「どうだか。まあ、髪や瞳は噂通りだけどな」
 銀の髪に藍色の瞳。それらはオルアンナの王族特有のものらしい。アルマリア王女は、その特徴をまっすぐ受け継いだものだとサイアルズでも言われていた。
 銀の髪と藍色の瞳は、差し出された王女も同じものを持っている。だが、多くいる王子王女の中でそれを受け継いだのはアルマリアだけだと言われている。では、彼女は何者なのだろうか。
「ま、考えても始まらんがな。で、どうするのだ? 彼女にはいつ名乗るつもりだ」
 アサギとしてこの隊とともにやってきたレグシアは、本来なら本国で王女の到着を待つ予定だった。だが、何を思ったのか、レグシアは変装してついてきたのだ。セシリアは好奇心からついて来たのだが、いまいち兄の真意が掴めなかった。
「本国に戻っても、暫くはこのままのつもりだ」
 静かに紡いだ言葉は、つまりアサギの姿のままでいる、彼女に王だとは名乗らないということを示していた。セシリアは驚いて目を丸くする。
「あいつにあのまま影武者をさせると?」
 訝しげな視線を送るセシリアに、レグシアは苦笑いした。
 本国では、自分を演じてくれている者がいる。その者に王女に自分として接してもらうということだ。
「彼女があなたを国王とは分からないことは、あなたにとってマイナスではないか?」
 このままでは、影武者である者に好意を寄せてしまうかもしれない。政略だからと言っても、それを心のよりどころにするのは当然のことだろう。何か信じるものがなければ、他国でやっていくのは難しい。
 セシリアの言葉はレグシアの痛いところを突いた。戸惑っているとは言え、気になる女性にはかわりない。そんな女性を他の男に持っていかれることは正直避けたいところだ。だが、国を思えば、すぐに名乗るわけにはいかない。今、レグシアには自由に動ける身が必要なのだ。
「別に、惚れたわけじゃない」
「うそつけ。独占欲丸出しのくせに」
 意地になって言うと、セシリアは呆れた声を出した。
 だが、何といわれようと、惚れたわけじゃない。気になることは確かだが、そういうわけじゃない。
 ――――たぶん。
「意地を張り続けるとためにならんぞ」
「うるさいな」
「私はこれでも安心してるんだ。やっと妻を娶る気になってくれたとな。それが好きな女であれば、なおのことだ」
「だから、そういうわけじゃない」
 なおも意地を張り続ける兄に、セシリアは呆れたため息しか出ない。本当にガキだ。
 何度言っても無駄だろうと考えたセシリアは、話題を変えることにした。
「まあいい。で、兄上、あれはどうするのだ?」
「ああ、あれか」
 話を切り上げ、セシリアが向けた視線の先には、ナイフを投げたところだった。
 二人は茂みをかき分けて、倒れただろう人物を覗き込む。そこには黒尽くめの装束に身を包んだ男が、俯けになって、気を失い倒れていた。
「見覚えは?ちなみに私はない」
「ない」
 答えながら、レグシアは男の身体をひっくり返す。肩には投げたナイフが深く刺さっていた。
「ダーコスか、それともオルアンナか」
「さあな。どちらにせよ、こいつには色々吐いてもらう」
 男の脈を確かめ、レグシアは立ち上がる。即効性の強烈な睡眠薬がナイフには塗ってあったのだが、問題はないようだ。
「荷馬車にぶち込んでおけ。込み入った尋問は本国で行う。自殺させるなよ」
「わかった」
 妹にそう命じ、レグシアは踵を返した。そのまま立ち去ろうとしたが、少し思いとどまって歩みを止める。
「姫の目には触れさせるな」
「御意に」
 少しだけ振り返って見せた瞳は鋭いものだった。
 兄の真意に気付き、セシリアは口元を吊り上げて頷いた。


***


 泉に沿いながら、レグシアは森の中を歩いていた。木々のおかげで月明かりは地上にあまり届かない。
 茂みを手でかき分けながら、命令の真意を妹に見破られたようで少々気が荒んでいるのを感じた。
 先ほどの男のことを、王女は恐らく何も知らないだろう。使者の連中はわからないが、彼女には何も知らされていないはずだ。下手に情報を与えると、ぼろが出る可能性があるためだ。
 それに彼女には血なまぐさい所とは無縁でいてほしいと思った。惹かれるがゆえか、彼女があまりにもきれいで純粋な存在に思えるからか。
 あってまだ二日というのに、いかに自分が重症か思い知らされる。妹が面白がるのも無理はないだろう。
 と言っても、それはあまりに彼女が噂と違いすぎるから戸惑っているだけだとも思える。そうであると願いたい。だが、彼女が自分以外の誰かと話し、微笑んでいるだけで、胸の中に靄が広がる。
「はあ…」
 肩を落とした背中は、情けないものだった。これが獅子王とまで言われている男の真の姿である。
「?」
 ふと視線を上げると、茂みの先には開けたところが見えた。そこは木々もなく、泉の傍は月の光を一身に浴びている。そしてその光のもとに座っていたのは、オルアンナの王女だった。
「…姫?」
 月を見上げる横顔は美しいものだった。レグシアはつられるように、彼女に歩み寄る。それは、昨日の夜、晴れやかな顔で月を見上げていた彼女のようだ。
 声をかけたからか、茂みをかき分ける音が聞こえたからか、アルマリア王女を名乗る女性はレグシアに振り返った。

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