第二章

(1)


 アルマリアとしてサイアルズへ嫁ぐよう命じられてから一週間後、その日はやってきた。
 サイアルズの使者が、アルマリアを迎えるため、オルアンナにやって来たのだ。
 謁見に選ばれたのは、謁見の間の中でも比較的小さい部屋だった。部屋にいるのは玉座に座る王をはじめ、彼の側近貴族、そしてオーリオやカリルローラ、その周りを固める貴族たちだった。
 といっても少人数で、謁見は静かに行われた。
 使者は全部で7人。身分がありそうな青年が二人、女性が一人。あとは文官と武官のようだ。
使者の代表を務めるらしい、青年が、一歩前に進み出る。
「はじめまして、サクスアイール陛下。私はイグレシオ・グレイス。我が国王レグシアに代わり、アルマリア王女殿下を迎えにまいりました」
 黒髪に青い瞳。整った容姿は目を瞠るものがあるが、まだ若い青年だった。
 彼を眺めていたオーリオが、隣に立つカリルローラに囁く。
「イグレシオ・グレイス。先の戦争で、先陣をきった将軍閣下か…。その割に俺とそう年もかわりそうにないですね」
「お前よりかはしっかりしてそうで敵ながら好感はもてるわね」
 カリルローラの冷たい言葉に、オーリオは愉快そうに微笑んだ。確かに、自分と違って真面目そうな青年だ。ただ、あまりに穏やかな表情をしているので、馬を駆って戦場を駆け巡る様を想像するのは難しい。
「サイアルズ六将軍の最年少ながら、実力は将軍のなかでも一番だと言われているわ」
「よくご存じですね、姉上」
「噂よ。他国の噂ぐらいよく流れてくるでしょう」
 そう言ってカリルローラは扇で口元を隠した。
 サイアルズは六人の将軍が国を守っている。サイアルズが武の国だと言われる由縁のひとつだ。
 将軍には当然、実力がないとなれないが、買収などを働いてその地位を手に入れる者もいる。だが、サイアルズはそんな不正を一切認めてこなかったらしい。おかげで、武に優れ、知略に優れ、人々に敬愛される者がサイアルズを戦に強い国へと押し上げた。
 イグレシオ・グレイスは、そんな六将軍に最年少でなり、今もまた最年少でその役目を担い続けている青年だ。その青年はオルアンナの軍を苦しめ、そしてこの城へと足を踏み入れた。
オーリオにとって愛しい妹を連れていくために。
「ふむ、そなたが我が軍を苦しめた将軍か。使者のまねごとなどして、さぞつまらんだろうな」
 サクスアイールは自分が敗北した王だというのに、イグレシオに対し堂々と皮肉をぶつけた。いや、敗北したからこその皮肉なのかもしれない。
 王の側近たちはハラハラしているようだ。使者であろうと機嫌を損ねたくはないのだろう。対してオーリオの周りの貴族たちは、王の尊大な態度にあきれ返っていた。
 しかし、皮肉をぶつけられたイグレシオは、その穏やかな表情を崩すどころか、笑みを深めた。
「いいえ、そんなことはありません。私は将軍といえど、王の一家臣にすぎません。王の命ならば、全力を持ってそれを全うするだけです。それに、王のお妃さまを迎える重要な任を与えてくださったことに、誇りすら感じております」
 聞きようによっては皮肉に感じるものだが、イグレシオがあまりに穏やかに微笑むので、サクスアイールは返す言葉がみつからなかったようだ。悔しそうに口元を歪める。
「まあよい、そなたらの望みのアルマリアを呼んで来い。気にいるかは、そなたの王次第だがな」
 王の命令で、側近の一人が退出する。そして一人の女性を伴って戻ってきた。ラティアリスだ。
 彼女が現れた途端、その場にいた者たちは息を呑んだ。
 ラティアリスはいつも身につける質素なドレスではなく、上質で豪華な薄い黄色の衣に身を包んでいた。ドレスにはふんだんに宝石が散りばめられ、身につける装飾品も同様だ。銀の髪を高く結いあげ、目線は少しうつむきがちだったが、彼女は誰もが目を瞠るほど美しかった。
 側近の者に促され、ラティアリスはアルマリアがいつも立っているように、兄王の横に並んだ。だが、少しだけ間を開けて。
「はじめてお目にかかります。私はアルマリア・アース・オルアンナと申します」
 そう言ってラティアリスは使者たちに、優雅に頭を下げた。イグレシオをはじめとした使者たちはその美しさに見とれているようだが、サクスアイールは面白くなさそうに小さく舌打ちした。隣に並ぶのがラティアリスであり、またラティアリスが注目を集めることを嫌がったのだ。
「この者が、あなた方サイアルズに嫁ぐものだ。何分、教育が行き届いていない面もあるが、まあ大目に見てやってくれ」
 このような場でも、サクスアイールは妹としてラティアリスを認めないつもりらしい。オーリオは舌打ちしたが、ラティアリスはただ俯きがちのままだった。

***


 サクスアイールは、夜にサイアルズの使者たちを労うための宴があることを伝え、謁見は早々に切り上げられた。
 謁見を終えたラティアリスは、アルマリアの館の庭の木の下に座り込んでいた。
 本物のアルマリアは、その姿を後宮深くに隠した。誰の目にも触れない、誰も踏み込むことのできない後宮へと。兄には何人かの妃がいたが、彼は彼女たちの相手をまともにしたことがないという。おかげで子供はまだいない。けれども、アルマリアがそこにいるのであれば、後宮にも足蹴に通うことだろう。他の妃たちに目をくれるかはわからないが…。なんでも、アルマリアが身を隠した場所は、他の妃たちの目にも触れられない、奥底だというからだ。
 ラティアリスは深くため息をつく。
 明日はサイアルズに旅立つ日だが、気は晴れない。謁見で兄王にぞんざいに扱われたためか、それともアルマリアとして偽って嫁ぐからか。あるいはその両方か。
 アルマリアのために建てられた王宮のこの小さな館にやって来たのは昨日のことだ。この館にはたくさんの侍女が出入れしていたが、侍女がやってくるのは朝の用意と、食事のときのみだけで、いまは館の入口に立つ兵士がいるだけだ。さっきもドレスを脱がすために侍女がやってきたが、仕事を終えるとさっさと出て行ってしまった。
 ラティアリスはこの館から出ることを禁じられている。オーリオたちに会うことすら禁じられた。
オーリオ達と会えない今、唯一慰めてくれるのは、アルマリアのために作られた静かな庭だ。
 木々が庭を囲み、たくさんの花々が咲いている。柔らかな草原に腰をおろせば、暖かな日差しが身体を包み込んでくれる。
 派手なアルマリアにはあまり似合わないものだったが、ラティアリスはこの庭を一目で気に入った。そこは日差しを少し和らげて届けてくれるし、風が吹けば花のいい香りを寄せてくれる。先のことを考えると、もやもやしてしまう気持を、和らげてくれた。
 だが、その庭に慰めてもらっても、気は晴れない。オーリオたちに一度も会えないまま、この国を出ることになるのだろうか。
 目を閉じて、嫌な気持ちを吐き出すように、溜息をついた。
「なんだかつらそうですね。ご気分が悪いので?」
耳に届いたのは聞いたことのない男性のものだ。ラティアリスは驚いて目をあける。周りを見渡しても、声を発したらしい男性はどこにもいない。
「こちらですよ、こちら」
 声は上から降ってきた。慌てて見上げると、しっかりとした木の枝に腰掛けてラティアリスを見下ろし、微笑んでいる眼鏡をかけた男性がそこにいた。
 少し長めの黒髪を後ろで縛り、精悍な整った顔立ちの青年で、長い前髪と眼鏡の下から覗く海色の――ブルーサファイアのような瞳が美しく輝いている。ラティアリスは思わずその容姿、そしてその瞳に吸い込まれそうになる。
「何か嫌なことでもございましたか?」
 青年の声で我に返ったラティアリスはびっくりして後退った。
 「ああ、そんなに警戒されなくても大丈夫ですよ。何もしやしません」
「あ、なたは…」
 やっとこさ絞り出した声に、青年はにっこりとほほ笑んだ。
 年は20半ばくらいだろうか、身につけている上質の衣はオルアンナのものではない。城でも王宮でも見たことのない青年だ。
「その前にそっちに降りていいですか? 危ないですからちょっとさがって」
 ラティアリスの了承も得ぬまま、青年は飛び降りる。驚いて立ち上がるが、青年は身軽らしく、綺麗に着地した。
「私はオルアンナの使者の一人、アサギ・リトアーデと申します。一応、イグレシオ閣下の後ろにいたのですが、気づきませんでした?」
 言われて、ラティアリスは返事にあぐねた。ずっと俯きがちだったため、イグレシオという人物の顔すらまともに見てはいない。
 するとラティアリスの気持ちを察したのか、アサギはけらけらと声をあげて笑った。
「そのように、お気遣い戴かなくても大丈夫ですよ。私は閣下のお供でしたから」
「そうですか…?」
「ええ、そうです」
 あまりに気持ちよさそうに微笑むから、ラティアリスもつられて笑う。だが、ふと思い至った。
「な、なぜこのようなところにいらっしゃるのですか」
 そういえばここはアルマリアの屋敷の敷地だ。館の周りは壁で囲まれているし、入口は兵士たちが守っている。訪問者を中に入れさせないために、ラティアリスを外に出さないように。
 それにここは王宮の敷地でもある。王族以外の者が、ましてや他国の使者が簡単に入れるような場所ではないはずである。
「いやー城の中をぶらぶら〜と散歩していたら、ここにたどり着いたというわけですよ」
「塀を飛び越えたのですか」
「はい。私割と身軽なんです」
 悪びれることもなく、アサギは朗らかに笑って言ったが、そう簡単に片づけていい話ではないはずだ。
「と、とにかく、早く城へお戻りください。誰かに見られたら大変ですよ」
 そうだ、使者が王宮に入り込んでいるなど知られたら、どうなるか想像がつかない。とにかく大変なことになることは確かだろう。
 ラティアリスはアサギを促すが、彼は動こうとはしなかった。
「誰にも見られないでしょう。だってここ、誰もいないじゃないですか」
 アサギの言う通りだ。ここには誰もいない。アサギを見る者もそういないだろう。
「でもどうしてお一人なんですか? 侍女すらいないなんて…」
「わ、私がそう頼んだのです。明日はサイアルズへ向かう日。落ち着かなくて、誰もいないほうが気も楽ですし…」
 人がいないのは秘密保持のためだ。まさか使者にそんなことを言うことができるわけもなく、ラティアリスはでっち上げた。アサギは不思議そうな顔をしているが、一応納得したらしく頷いた。
「そうですか、姫君はお一人サイアルズへ向かわれるのですから、落ち着かないのも当然でしょう」
 アサギには気遣いが見られた。きっと一人敵国へ嫁ぐ王女に同情したのだろう。
 ラティアリスは気遣いをありがたく思いながら、首を振った。
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
 自然と笑みがこぼれるのがわかった。それは諦めからか、さびしさからか、ラティアリスはわからない。
 その笑みを見たアサギの表情が、静かなものになった。
「お嫌ですか?」
「え?」
「他国へ嫁ぐのは、お嫌ですか?」
 アサギはどこか悲しそうだ。いや、寂しそうだと言ったほうがいいかもしれない。どこか、過ちを犯してしまって後悔しているような、そんな色があった。
どうしてそんな表情をするのか、ラティアリスにはわからなかったが、正直な気持ちをいうことにした。
「いいえ、嫁ぐことは嫌ではありません。国のために何か役に立てるのであれば、喜んで私は参ります」
 やはり自分の口元からは笑みがこぼれる。
 さびしい気持ちは嘘ではないが、いるようでいないようで、そんなふうに扱われてきたからか身代わりといえど、役に立つのは純粋に喜ばしかった。ただやはり、問題は大きいと思うけれど。
「よく言う」
「え?」
 発せられた声音は、とても低いものだった。今までの穏やかなものとちがうことは十分に感じられ、ラティアリスは肌寒いものを感じた。
 だが、アサギはそんな表情などしなかったのかのように、すぐに笑った。
「いえ、何でもありません。我が主に、姫の思いは届くことでしょう」
「そう、でしょうか」
 あまりに朗らかに笑むので、先ほどのアサギの顔は見間違えかと思った。だが、あの悪寒は確かに感じたものだ。だからと言ってそれをといつめるのも、気が引けるが。
「もちろんです」
「だと、よいのですが…」
 胸の靄が晴れないでいると、一陣の風が吹き、ラティアリスの髪を揺らした。髪はあらがうことを知らず、さらさらと舞う。風がさらったのはラティアリスの髪だけではなかった。木々の葉が、天へとさらわれていく。
「見事な、御髪ですね」
「え?」
 その情景に惹かれて目を向けていると、とても優しげな声音が聞こえてきた。振り向くと、とても優しい笑みを浮かべたアサギがそこにいた。
「銀の髪は、サクスアイール陛下とアルマリア様にしか受け継がれていないと、聞いたことがあります」
 銀の髪は王族特有のものだ。12人いる兄弟の中で、男児には長男のサクスアイール、女児には長女であるアルマリアと、四女であるラティアリスにしか受け継がれていない。また深海の瞳も、王族に受け継がれるもので、これを持っているのはアルマリアとラティアリスだけだった。
 といってもラティアリスは母の身分が低いが故か、いないも同然に扱われてきた。一応王女としてこの王宮で暮らしているが、その存在は希薄なものだ。そのため、銀の髪と藍色の瞳を受け継いだのはアルマリアだけだと世間では言われている。
「ええ、先王の子供では私と兄だけです」
ラティアリスは自分の存在を伝えようとはしなかった。そうなれば話がややこしくなるし、変に疑いをもたれても困る。
 ラティアリスがサクスアイールたちに疎まれる理由に、生まれとともに、この受け継いだ髪と瞳にもあった。王族にしか受け継がれないこの髪と瞳は、いわば神聖なものだ。それを、庶民の娘が継いだなどと腹立たしいのだろう。父は同じ髪色と瞳を持つラティアリスを可愛がってくれたが、兄や姉たちはそうはいかないらしい。
 だが、それが今回彼らの役に立ったのだから、なんとも皮肉なものだ。
「あなたの美しさは、わが国にも伝わっております。妖しい、魔術のような美しさがあると。でも、こうやってあなたを目の前にすると、それとはちょっと違う気もしますね」
「は、はあ…」
 面と向かって容姿を褒められ、ラティアリスは頬が上気するのを感じた。思えばオーリオ以外の若い男性とこうやって話すのは、初めてかもしれない。
「あなたは大変美しい。でも、妖艶というよりは―――」
 アサギの言葉が途中で切れたかと思うと、眼鏡の下の瞳が鋭いものに変わっていた。思わずラティアリスにも緊張が走る。
「残念。どなたかいらっしゃったようだ。私はこれで失礼いたします」
「え? あ、はい」
 頷いたはいいが、どうやって出るつもりなのだろうか。しかし彼は尋ねる間もなく、飛び降りた木に軽快に登り始めた。軽業師のようなその身のこなしに呆けていると、アサギはさっさと枝の上に乗りあがった。
 そのまま塀の向こうに消えるのかと思ったが、彼は顔だけラティアリスに向けた。
「そうそう、さっきの話ですが、あなたの美しさは妖艶なものというより、花のような美しさですね。まるで淡い色をした薔薇のようだ」
 微笑む彼の言葉にラティアリスは目を丸くした。なんともストレートな言葉だ。お世辞だろうと分かっていても、ラティアリスはその心遣いに顔をほころばせた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、嬉しいです」
 素直な感謝の言葉にか、アサギは目を丸くした。そしてバツが悪そうに、だが少し照れたように頬をかく。
「どれが本当なんだか」
「え? 何か…」
 呟いたものは、ラティアリスの耳に届くことはなかった。アサギは聞き返すラティアリスに応えることなく、では、と姿を消した。
「なんだったのかしら…」
「姉上。どなたかいらっしゃってたんですか?」
「?! オーリオ様!」
 背後から声をかけられ、振り向けば、そこには悪戯っ子のように笑う大切な兄、オーリオがいた。ラティアリスはアサギのことを一瞬にして忘れ、オーリオに駆け寄った。
「どうして、面会は禁じられているはずでは…」
「ああ、禁止されているよ。でも、明日旅立つというのに会えないのはさびしいので、無理やりきた」
 堂々というオーリオに、ラティアリスは笑みをこぼさずにいられなかった。兄はいつでも兄なのだ。
「怒られてしまいますよ」
「怒らせとけばいい。理不尽なのはあちらなのだからな」
「まあ、オーリオ様ってば」
 オーリオらしい返答に、ラティアリスは声をたてて笑う。
 ああ、自分にはこんなに優しい兄弟がいるのだ。サイアルズに行っても、変わらず彼は自分の兄なのだ。
 そう思うと、不安が晴れていくのを感じた。
 オーリオは微笑むラティアリスの頬に、そっと自分の手を添えた。驚いて見上げると、優しげに微笑む兄がそこにいた。
「オーリオ様…」
「俺は誓おう。何があっても、お前を忘れることはない。遠くからではあるが、お前を守ると―――」
 遠くの地へ向かう妹を守ることができなかった。ならばせめて、遠くの地に住まう妹を守ろう。
 手を通してオーリオの想いが伝わり、ラティアリスはそれに頬を寄せた。
 ああ、自分は幸せなのだ。
 たとえ兄や姉たちに疎まれようと、自分には自分を愛してくれる兄もいる。
 それだけで、強くなれた気がした。
「覚えておいてほしい。お前はこれからきっと楽しいこともあれば、つらい思いをすることがあると思う。帰りたいと、願うことがあるかもしれない。でも、どうか耐え抜いてほしい。俺はお前の味方だ。カリルローラ姉上や、マリー、ゲーテ…みんなお前を大切に思っている。それだけは、忘れないでおくれ」
「オーリオ様…もちろんですわ」
 ラティアリスは満面の笑みをオーリオに向けた。
 その思いだけで、自分は十分幸せなのだから、これから何があっても、耐え抜いて見せよう。
ラティアリスは深く深く、自分の心に誓った。


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