(9)

 全身から嫌な汗が噴出す。ちくちくと僕の肌を何かが刺す。それは背中から広がって、なんとなく脳内まで刺している気がした。
「お母さん?」
 お母さんは僕の呼びかけに答えることはなく(あえて言うなら笑顔で答えていたというか)、そっと顔を上げる。
 その視線の先にいるのは、お父さんで。
「孝ちゃん」
 お母さんはそう言って、カバ夫たちに指を刺した。なんとなく、その行為が、犬に「Go」って言ってるみたいなんですけど…。
 僕の考えたことは当ったのだろうか、お父さんは三人に向かって駆け出した。ってか狭いから二、三歩で済むけど。
「この!!」
 よろよろと足元がおぼつかないのは、金髪のつんつん頭。声からするとあれがカバ夫だ。
 うーん、顔は悪くないけど、直情系って感じだなー。
 向かってくるお父さんに、カバ夫は受けて立つようで、お父さんにパンチを繰り出す。弱っているようだけど、それなりに威力はありそうだった。
 危ない!!
 目を瞑りそうだったけど、何とか瞑らずに僕はその流れを見ていた。というか、目を瞠ってしまった。
 お父さんは余裕でそのパンチを横にかわし、繰り出された右ストレートの手首を左手で掴むと、反対側の右手でカバ夫の胸倉を掴んだ。そしてそのまま身体をカバ夫の懐にいれ…。
「手加減しろよー!!!」
 何だか悲痛な先生の叫び声と共に、カバ夫はそのまま投げられた。
 ドン!という大きな、カバ夫が叩きつけられた音が部屋に響いた。
 み、見事な一本背負い…。
 前かがみになっていたお父さんが顔を上げた。いつもどおりの無表情だ。
 なんていうか、かんていうか…。僕は、どうしようと思った。ほんと。
 普段ボーっとしてるお父さんが、無駄なく身体を動かし、カバ夫を倒してしまったんだ。それどころじゃない。息も上がってないし、蹴破られたドアを見ると、威力は一目瞭然。
 つまり、お父さんは、めちゃくちゃ強いって事。
 先生が自分をストッパーと言った理由がちょっと分かった気がした。誰かが止めないと、危ないんだ、この二人は。
 うーわー、お母さんといい、10年と3ケ月、僕には驚愕の事実だよ。ほんと。
「…っ!?」
 リーダーもキィ子も、僕同様、びっくりしているようだ。口をぽかんと開けたまま、動かない。
 リーダーは黒髪にワイシャツを着ていた。顔はまあ、カバ夫よりかは整ってるね。
 キィ子は金髪で、ショートヘアだった。ちょっと可愛い顔してるよ。
「〜っくそ!!」
 先に我に返ったのはリーダーで、ポケットから何かを取り出すと、片手で器用にそれを回した。
 カシャカシャ、と音がすると、そこから飛び出したのはナイフだった。バタフライナイフだ。
 きっと僕に突きつけたナイフと同じに違いない、と思った。
 ってちょっと待って、まさかお父さんを刺す気じゃ…!
 僕の身体が途端に震える。それに気づいたのか、お母さんが僕を優しく抱きしめた。
「大丈夫よ、秀ちゃん。お父さんはあんなやつに負けるほど、弱くないから」
 そこにあったのは黒い笑顔ではなく、いつものお母さんの優しい笑顔だった。
 お父さんを心から信頼している証だ。
 いや、でもちょっと待とうよ。相手はナイフだよ?凶器出してきてんだよ?どうしてそんなに安心していられるの?!
 ぶすっとやられたら、一瞬なのに?!
「ちょっと!殺人は勘弁してよ!?」
 リーダーの行為に、やっとこそさ我に返ったのか、キィ子が叫んだ。顔は青い。
 そりゃそうだ、下手をすれば血まみれなんだから。
「馬鹿野郎! そんな悠長なこと言ってられっかよ! ここでやられたら、捕まっちまう!」
「誘拐罪に傷害罪を、下手して殺人罪を追加する気?! 何もしないで、ここで捕まったほうがまだましでしょ!」
 キィ子の言うことも最もだと思う。けれどもリーダーは「うるさい!!」とキィ子を一喝すると、ナイフの先をお父さんに向けて突進した。
 刺される!?
 そう思ったけど、僕はまた目を瞠ることになる。
 お父さんは見切ったように、ナイフを持ったリーダーの右手首を難なく掴み、それを雑巾絞りのように回すと、握力の限り締め上げた。
「ぐあ・・・」
 あまりの痛さに、リーダーはナイフを手放した。
 カラン、とナイフが床に落ちる。
「く…そ…!」
 それでもリーダーは諦めていなかったのか、反対側の自由な手で拳を作ると、お父さんの腹目掛けて走らせた。
 けれどもお父さんはまた、それを難なく受け止めた。今度はお父さんは反撃、といわんばかりに膝を動かし…
 ドス!
「か…は…」
 お父さんの膝は見事にリーダーの鳩尾に入り、思わずリーダーは膝を突いた。
 前かがみになって苦しそうに腹を押さえていた。
「す、凄い…」
「だから言ったでしょ?」
 僕の感嘆にも似た呟きが聞こえたのか、お母さんが嬉しそうに答えた。
 いや、そんな嬉しそうに答えられてもなあ…。怪我人でてんだし、喧嘩が強いってのもそう褒められたことではない気がするんだけど。
 って僕もそれなりに喧嘩して勝ってるクチだけどさ。
「ひっ!」
 お母さんに気をとられている内に、お父さんがキィ子に歩み寄っていた。
 キィ子はすっかり怯えた様子で(当たり前だろうけど)、壁に背をつけて震えていた。足が竦んでいるようだ。
 僕は慌てて叫んだ。
「お、お父さん! もういいよ!! 僕は大丈夫だから!!」
 僕は咄嗟にお父さんを止めなきゃ、って思った。キィ子はこれが『悪いこと』で、『僕に悪いことをした』って思ってるんだよ? そりゃあ、こんなことする自体、悪いんだけどさ。でも、キィ子が殴られたりするのは嫌だったんだ。
 キィ子の話聞いて、それがかわいそうだと思った。そんな僕がお人好しだったせいかもしれない。
 すると、お父さんは歩み寄るのをやめて、くるりと回れ右した。僕の言葉どおりにしてくれるらしい。
 ほっとため息をついた。
 どうやらキィ子も安堵したようで、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場にへたり込んだ。
 お父さんは落ちたナイフを拾うと、僕の元にやってきてしゃがんで覗き込んできた。そして、僕の手足に視線をやる。
「ありがとう、お父さん」
 手足首を見るとかなり固く結んであったせいで、くっきりと痕がついていた。痕と言うより擦り傷だった。
 お父さんは、そんな僕の手首を腫れ物に触るみたいに優しく撫でた。痛みはあまり感じなかった。
「大丈夫?」
 お父さんは優しく、言った。他の人が聞くと、全然感情は感じられないだろうけど、くどい様だけど、10年と3ケ月、一緒に暮らしてる僕には分かる。お父さんの今の声はとっても優しい。
「大丈夫だよ」
 僕が笑って答えると、お父さんは僕をぎゅっと抱きしめた。
 お母さんとは違って、とても固いお父さんの身体。けど、とても温かかった。お母さんと同じ、優しい温もりが、僕を包んでくれた。
 それが溜まらず嬉しくて、僕もお父さんをお父さんに負けないくらい、ぎゅっと抱きしめた。
「とにかく、無事でよかったよ」
 先生の安堵した声がする。声には、嬉しさが含まれていた。
「ええ、本当に良かったわ」
 それに便乗するようにお母さんは言って、僕の頭を優しく撫でてくれた。

 ああ、僕は助かったんだ。
 お父さんとお母さんのところに、戻ってきたんだ。

 そう思うと、嬉しくて、嬉しくて、涙が出そうになった。
 ちょっと怖かったからね。
 でも泣いたりしないよ。僕は男の子だからね。
 そんな風に、感傷に浸っていると、ガタっと音がした。お父さんが振り返ると、僕の前の視界が開けた。
 そこには、起き上がって窓から出ようとするカバ夫とリーダーがいた。
 二人は窓から出ると、家を囲っている塀を何とか乗り越えてしまった。

 つまり―――――逃げた。

 あーーーーー!!
 僕は内心叫ぶが、お父さんは冷静だったようで、僕を離すとさっと立ち上がり、窓の外へ向かう。
 窓からひょいっと軽快に飛び出たお父さんは、次に塀に向かう。塀に手をかけると、これまた 二人と違って、難なく軽快に飛び越えた。
 なんつう運動能力だ。
 呆然としているのは僕と、逃げ遅れたキィ子だけで、お母さんと先生はあまり動じていなかった。
「お、お母さん。いくらお父さんでも、二人いっぺんに捕まえられないよ?」
 あまりにも動じないお母さんに、僕は心配になって声をかける。下手をすれば逆に襲われちゃうんだよ?
 二対一だよ?
「大丈夫よ、秀ちゃん。念には念を入れてあるから」
 念?
 何の?
 眉を顰める僕を気にせずに、お母さんは立ち上がる。おーい、お母さーん??
「さてと、私たちも行きましょうか」
「ど、どこに?」
「外よ。藤木さん、あの方よろしくね」
「ああ、分かった。けど、あまり問題起こすなよ?」
 お母さんの言葉に、藤木先生は呆れたように言う。お母さんは「大丈夫よ」と言いながら、僕の手を引いて、壊れたドアから出た。
 外は、もうオレンジ色に染まっていた。
 そして空き家を囲む、たくさんのバイクも同じようにオレンジ色に染まっていた。

 

 …………バイク?


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