(8)
「え?」
わけが分からず間抜けな声を出したのは僕だった。
聞き間違いはない、はず。僕は生まれて十年と三ヶ月、この声を聞き続けて育ったんだから。
でも、どうしてお母さんがここに?
って、さっきの音はお母さん?まさかドアを蹴り破ったの?
僕はきょとんとして、開いた口が塞がらない。
それは僕を除く三人も同じようで、キィ子は僕を抱きしめたまま微動だにしない。いや、できないようだった。
すると、また聞きなれた声が聞こえた。
「秀、返して」
「お、お父さん?」
それはお父さん。
これまたいつものように無感情な、強弱のない口調。少し低めな、近所のおばさんに言わせるとナイスボイス。
ドアを蹴破ったのはお父さんかな?って、冷静に推理してんなよ、僕。
「な、なんでここが・・・!!」
「・・・さっきのあんたの電話といい、逆探知か」
うろたえるのが、声にまで現れるカバ夫とは逆に、リーダーは落ち着いた声で言う。でも舌打ち交じりだった。
リーダーの言葉通りだとすると、電話をかけてきたのはお母さんってことかな。
そんなふたりを嘲笑うかのように、明るい、緊張感のない声でお母さんが口を開いた。
「ぴんぽーん! あ、別に警察が逆探知したわけじゃあないですよ。悪いですけど、警察には通報しましたけどね。警察は逆探知に苦労してました」
「じゃあ、どうして」
キィ子も動揺を隠せないようで、少し震えた声で問いかける。そして、僕を強く抱きしめた。逃がさないようにじゃない、まるで守るように。
突然現れたお父さんとお母さんが、どこか得体の知れない存在に思えたのかもしれない。
「・・・それはですね。私の旦那様は、機器系統に関してはとっても優秀なんです。あなた方がはじめに電話をかけた時点で携帯番号、アドレスを入手。いわゆる、ハッキングってやつですね。もう一度かけてきたときに、衛星をハッキングして、どこにいるか分かっちゃったわけです」
ああ、お母さんがにっこり笑いながら説明して、お父さんが無表情でうんうんと姿が目に浮かぶよ。そして三人が呆然としている姿も・・・。
そう、お父さんっていつもぼけぼけして、眠そうな顔してるけど、実はパソコンとかその他機械とか、かなり強いんだよね。伊達にそれ系統の会社に勤めてないよ。
でも、ハッキングって犯罪行為じゃないの?
ってそういうところは考えちゃダメなのかな?
そんでもって、そんなこと普通出来ないよってツッコミはなし?
「もう孝ちゃんってば凄い!!」
ハイテンションでお母さんはお父さんを褒める。きっとお父さんは照れてるに違いない。って無表情で端から見ればよくわかんないだろうけど。
「ふ、ふざけんなよ!そんなボケボケした眠たそうな顔のやつがそんなこと・・・!」
あ、カバ夫、僕と同じこと考えてた。まあ、信じたくないのは無理ないんだけどね。でも事実なんだよ。
「本当です。こうしてここにたどり着いたわけですからね」
お母さんの言葉に、カバ夫は舌打ちする。お母さんの言う通り、ここに来ちゃったわけだからね。
じゃり、と音がした。お母さんかお父さんが多分土足で上がったんだろう。って僕靴履いたまんまじゃん。
「さてと、そちらが要求した額は、3千万。残念ながら、我が家にそんな大金はありません。なんとか七百万ほど集めましたが、それ以上はちょっと・・・。ですから」
じゃり、また一歩進む足音がする。
異様な空気が部屋中を包み込んでいる気がする。なんかこう、身体中の毛穴からいっせいに汗が噴出してしまうような・・・。ってか、いま何だか身体中冷や汗かいてんですけど・・・。
「傷害保険からお金を卸してもらおうと」
ああなんでだろう、お母さんがすっごくにっこり笑って恐ろしいことを言っている気がする。
つまりあれだろ。リーダーたち三人を階段から落とすなりなんなりして、事故に見せかけて、それで保険でおりてきた医療費とかで身代金賄おうって?
無理だよ、ってえか無茶苦茶だよ!!!犯罪じゃんかあ!!
つうかそんなこと無理だよ!!ほんとに保険からそんなん下りるの!?
そんでもって、ここまで親の恐ろしい心理を読む僕自身がなんかやだあ!
ああ、それにお母さんみたいな細い腕じゃ、三人に敵わないって!
お父さんみたいなボケボケした人が敵うわけないって!!
「あ、でも入院費とかでお金がプラスマイナスゼロになっても知りませんけど。あ、むしろマイナスになるのか」
「お、おい。美乃里ちゃん、そう脅すなって」
あれ?今度は・・・
「先生?」
「よ、よう。秀善」
藤木先生が何でここに・・・。
「なんで藤木がここにいるの?」
あ、お父さんが珍しく自分から喋ってる。しかしお父さん、ちょっと先生に冷たいんじゃないって何でお父さんも知らないのさ。
「お、お前なあ。俺は担任だからって、今回の事件について警察から連絡が来て、それでお前んちまで来たんじゃないか!
それに秀と徳輔を居残らせたオレの責任もあるし・・・。そしたらお前と美乃里ちゃんは監禁場所が分かったっていって、警察の目ぇすり抜けて家を出て行くし・・・。そのうえあいつらまで引き連れて・・・」
先生の落胆した声が聞こえた。
ああ、お父さんは知らないんじゃなくて、藤木先生の存在が鬱陶しいんだ。・・・それって酷くない?
・・・それにしても、『あいつら』って誰のことだろう。
「やあねえ藤木さん、利用できるものは利用しないと」
「や、やあねえ美乃里ちゃん。限度ってもんが俺はあると思うんだよ」
ふふふ、と嬉しそうに笑うお母さんと、ふふふ、と引きつった笑みをこぼす先生。
・・・お母さんってこんな人だったの?黒いっていうか、どす黒いっていうか・・・結局黒いんだけど。
この世に生まれて十年三ヶ月。驚愕の事実だ。
「俺はねえ、お前たちが暴走しないためのストッパーなんだよ」
「藤木如きが俺らを止められると?」
「まったく思ってないよ」
お父さんの問いに、藤木先生はきっぱりすっぱり即答した。僕の予想では胸を張っているに違いない。
・・・胸を張るようなことじゃないと思うけど。
それにしても、お父さんとお母さんのストッパー役?
どゆこと?
「ともかく、秀ちゃんは返してもらいます。いいですか、大人しく返せば私たちは何もしませんし、あなた方が逃げたところで何もいいません」
「金は?」
「渡す気はありません、っていうか元々ありません」
「・・・もし、あんたらのいう通りにしないというのなら?」
リーダーの問いに、なんだかにやりと笑ったお母さんが想像できた。
「力尽くでも」
「調子にのんなよ!?」
挑発的な口調に、逆上したのだろうか、カバ夫が駆け出す音がした。
きっとカバ夫は挑発したお母さんに殴りにかかっているに違いない。リーダーの止める言葉を無視して、突っ込んでいったようだった。
―――お母さん、逃げて!!
そう、声には出なくて、心の中で叫んだ。すぐに鈍い音がして、僕は目隠しされていたけど、思わず目を瞑った。
すると何かが倒れこむ音がした。
―――まさかお母さんが殴られたんじゃ!
嫌な考えが頭を過ぎり、全身に冷や汗が流れ出た。
真っ暗な先に、お母さんが倒れこんだ絵が、想像なんてしたくないのに浮かんだ。
「まったくもう、後先考えずに突っ込んでくるからこうなるんですよ?」
――――――え?
まるで、小さい子に叱り付けるような、「めっ」、てなかんじなお母さんの声が聞こえてきた。
じゃあ、倒れこんだのは?
まさか―――――カバ夫?
「ああもう、人って結構硬いんですから、手が痛いわ」
・・・殴ったの、お母さんなの?
少し拗ねたように言うお母さんの様子に、僕をはじめ、リーダーもキィ子も、呆気に取られているんじゃないだろうか。少し放心した僕たち三人の様子がふと目に浮かび、僕は慌てて我に返った。
「美乃里、俺がやったのに」
「あら、孝ちゃん、ごめんなさい。どうも反射だったようで」
のんびりとした夫婦の会話が聞こえる。
のほほんとした温かい場違いな空気が、その場に流れているようだ。
「お、おい、美乃里ちゃん、手加減したんだろうな?」
「・・・藤木」
するとその間に割って入るように、藤木先生が遠慮がちに聞いてきた。
お父さんは邪魔するなと言った感じで、ドスの聞いた声で先生を威嚇する。しかし、お母さんは気づいていないようで(気にしていないようで?)、陽気な声で言った。
「あら、多分大丈夫よ。酷くて頬骨が折れてくるぐらいかしら。でも中指を突き出して殴ってないから、そんなことにはなってないと思うけど」
・・・さり気に凄いこと言ってるね、お母さん。
お母さんって本当にこんな人だったっけ?
僕は返ってくるはずのない問いかけを再びした。まあ、時々有無を言わせぬ迫力があるけど・・・。
「お、おい。大丈夫か?」
リーダーが心配そうに声をかけていた。ってことは、やっぱり殴り飛ばされたのは、カバ夫なんだね。
「っくしょう!」
カバ夫の悔しそうな声が聞こえる。そりゃあ、女の人に殴り飛ばされたんだもんね。プライドを傷つけられたに違いない。
「あのアマ・・・!」
「あんたの母親、何者なの?」
怒りを露にするカバ夫を横目に、キィ子が聞いてきた。その声には当惑の色が見える。
でもね、そんなこと聞かれたって、僕にだって分からないよ。僕だってかなりびっくりしてるんだけど。
「ほのぼの専業主婦のはずだけど」
「ほのぼの専業主婦が大の男を殴り飛ばすか?
普通」
だから聞かないでって。
会話に入ってきたリーダーに、僕は内心突っ込む。
キィ子は僕を抱きしめたまま立ち上がる。僕は引っ張られるようにして、立ち上がった。
キィ子は僕を抱きしめる力を緩めない。それは逃がさないように、じゃなくて、守るように。ほっそい腕で男を殴り倒したお母さんが、にわかに僕の母親だとは信じられないのかもしれない。僕も正直信じられないんだけど…。
「さあ、秀ちゃんを返してくださいな。言っときますけど、抵抗したからもう逃げ場はありませんよ」
「警察にでも知らせたか?」
「いいえ。でも、警察が来るのも時間の問題でしょう。ご近所の方々が、迷惑がって通報しているかもしれません」
お母さんの強気な発言に、僕は首を傾げた。言っている意味がよく分からないのだ。
それは僕だけはないに違いない。
そんな中、当惑しっぱなしのキィ子が、小声でリーダーに問いかける。
「どうする?」
「そうだな、お前、そのガキ離すなよ?
あいつらただもんじゃねえ。母親は一発でこいつを殴り飛ばしたし、父親は今のところじっとしてるが、さっき鍵のかかったドアを一発でぶち壊しやがった・・・。今まで数え切れないくらい喧嘩してきたけど、何だか勝てる気がしねえな。まったく、お前の言うとおりだな、秀善。ターゲットはちゃんと下調べしとくべきだ」
ふっ、と鼻で笑いながらリーダーは言った。自分で自分の浅はかさを笑っているんだろう。
ってかやっぱりドアをぶち壊したの、お父さんなんだ・・・。
「ホラ、早く立て。ずらかるぞ」
どうやらリーダーは倒れているカバ夫を立たせているようだ。
するとカバ夫は舌打ちした。
「あの女、許せねえ・・・」
「馬鹿! 今は逃げることのほうが先決でしょ!?」
殺気立つカバ夫に、キィ子は腕を伸ばして止めに入ったようだった。僕を戒める力が弱まる。
「うっせえな! てめえは黙ってろ!!」
「そういうわけにもいかないわよ!
いいから逃げるわよ!!」
キィ子はぐいっとカバ夫を引っ張った。
ドアの前にはお父さんたちが立っているっぽいから、逃げるとしたら窓から。
キィ子に引っ張られて、僕はおろおろとよろけた。そういえば、僕って足を縛られたまんまじゃんか。
くぅ、逃げられない。
「逃がしませんよ」
ダン!という足を踏み込む音が聞こえたかと思うと、後ろにぐいっと引っ張られた。
な、何が起こったの!?
「あ!」
キィ子の声が聞こえ、気がつくと僕は知っているぬくもりの中にいた。
―――これは
「お、お母さん?」
「ぴんぽーん。もう大丈夫よ、秀ちゃん」
そう言ってお母さんは僕を強く抱きしめた。あ、お母さんの匂いだ。
「馬鹿! 何やってんだ!」
リーダーの罵声が聞こえる。
きっと僕を取られたことで、キィ子を怒鳴りつけているんだろう。
「お母さん、目隠しとって、何も見えない」
座り込み、ぎゅーっと抱きしめてくるお母さんに、僕は必死で訴えた。ちょっと息ができないんですけど・・・。
「まあまあ、ごめんなさい。気がきかなく・・・・」
「お母さん?」
途中で会話の切れたお母さんに、僕は首を傾げる。何かあったんだろうか。
すると、温かく、柔らかい手が、僕の頬に触れた。途端、ぴりっとした痛みが走る。
「これ、どうしたの?」
気のせいだろうか、お母さんの声が低い。
それはカバ夫に殴られた左頬だった。怒涛の一連の流れですっかり痛みを忘れてたよ。
「えっと、殴られて・・・」
「孝ちゃん」
より一層低い声で、お母さんが呟くようにお父さんに声をかける。
いったい何が起こるんだろうか。
めちゃくちゃ不安なんですけど。
「私たちの子供に手を出せばどうなるか、思い知らせてあげて」
げ―――――!?
「みみ美乃里ちゃん!?それより、秀善の目隠しとってやらなきゃ!
ほら、ずっとしてたっぽいし!!」
僕の嫌な予感と、先生の予感は一緒だったんだろうか。慌てて、半ば叫ぶように言った。
するとお母さんはいつもの口調に戻り、「あらあらそうねえ」といって目隠しに手をかけた。
「ごめんなさいね、秀ちゃん。お母さん気がつかなくって。大丈夫よ、秀ちゃんにはお母さんがついているわ。だから・・・」
「え?」
すると、最後にお母さんの声がまた低くなった。
その声は僕の身体に異常を起こした。背中がぞくぞくして、鳥肌がぶつぶつと立って、毛穴から汗がじわじわを吹き出る・・・。
これを言葉にすると、「殺気」というやつだろうか?
若干身体が硬くなりそうなのを感じながら、お母さんは僕の視界を遮っている目隠しを取ってくれた。
一時間程度しか経っていないのに、夕日の光がえらく懐かしく思えた。
真っ暗な世界から、明るい世界に飛び出した僕の目は、慣れないようで、反射的に目を細める。
細めた先にやっと見えたのはお母さんの笑顔。僕の知ってる、お母さんの・・・笑顔?
やだなあ、僕の第六感が悲鳴を上げているよ。気のせいだと思いたいんだけど。
今のお母さんの笑顔は、何度も見たことのあるほわほわとした笑顔だけど、ちょっと違うんだ。何かを含めているって言うか、何かに怒っているっていうか・・・。
とりあえず――――――――怖い。
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