(7)

「大丈夫だよ。ちょっと痛いだけ」
 殴られた当初はかなりじんじんして痛かった。今もじんじんするけど耐えられない傷みじゃない。
 少し口の中が、血の味がするけどね。
 キィ子の指が離れると、冷たい何かが代わりに、その頬に触れてきた。これは―――濡れた布?
「これで我慢して。部屋は汚いけど、これは綺麗なハンカチだから、気にしないでね。押さえてろって言いたいけど、これじゃあ無理だね」
 両手両足を縛られてる僕には、そのハンカチを押さえるのは無理だった。
 キィ子は軽く笑いながら、僕の頬を冷やすために、ハンカチで押さえてくれるみたいだった。
「ありがとう」
 僕が言うと、キィ子は「いいんだよ、礼なんて」と言った。
 相変わらず、声は寂しそう。
「巻き込んだのはあたしらだからね。あたしらの都合に、あんたを巻き込んだ。あんたの家族もね。危険な目にあわせて、ほんとごめん。金が手に入ったら、もう大丈夫だから」
「ねえ、どうしてそんなにお金が必要なの?」
 申し訳なさそうに言うキィ子に、なんとなく気が引けたけど、僕は思い切って疑問を口にした。
 言うと、キィ子は少し戸惑ったようで、押し黙った。
 嫌ならいいよ。
 そう口にする前に、キィ子が答えた。
「あたしは、ちっちゃいころに母親が死んじゃってね。父親と二人暮しだった。父親はちっちゃな工場を営んでいたんだけど、莫大な借金抱えて倒産、父親は銀行からの金だけじゃなくて、闇金にまで手を出しててさ・・・。連日連夜、借金取りが家に押しかけてきて、それに耐えられなくなったのか、父親はあたしを残してどっかいっちゃって・・・。援交して、なんとか金を稼いでいたけど、やっぱり足りなくてさ・・・。だから、あんたをさらった。お金が欲しくって・・・」
 寂しそうに、辛そうに、泣きそうに。
 僕は、目隠しをされているから彼女が見えない。
 でも、それでも、キィ子がそんなふうな顔をしているんじゃないか、って容易に想像できた。
 キィ子の話はよく分からない言葉が出てきた。でもそれが、とてもとても苦しいことだということは分かった。キィ子の顔は知らない、見えない、だから分からない。でも、泣きそうな、でもそれを我慢する、キィ子が目の前にいた。
 目の前に―――いるんだ。
 僕は下唇を噛んだ。
 なんだか、自分が泣きそうな気がして。僕の中から自然と言葉がこぼれた。
「いいよ」
「え?」
「辛いんなら、泣いていいんだよ」
「・・・・・・」
「辛いこと、心に溜め込むと、もっと苦しくなる、辛くなる」
 辛かったら泣けばいい。
 辛いときに泣けないほど、辛いことはない。
 キィ子がどんな顔をしているか、それは分からない。相変わらず、目の前は真っ暗だから。
 どんなことを感じてるんだろう。
 子供の戯言だと思っているんだろうか。
 ほっとけって思っているんだろうか。
 お前には関係ないって。
 そうだね、関係ないね。僕は関係ない。
 リーダーが何を考えていようが、カバ夫が何をしようが、キィ子が、辛い思いをしていようが・・・。
 他人事。
 そう他人事だよ。
 でもね、なんでだろうね。
 お人好しなのかな?
 他人事にはできない。辛い思いをしている人が目の前にいて、それをどうにかして上げたいって思った時点で、他人事には出来ないんだ。

 ああ。

 僕は。

 馬鹿なんだ。

 思わずうつむいて、自嘲気味に笑った。
 あーあ、こんな危険な目に合わされてるのに、なんでこんな人に同情しちゃうんだろう。
 馬鹿だなあ。
 ほんと馬鹿だ。
 そんなことを考えていると、ふわりと、上から何かが僕を包んだ。
 温かくて、柔らかくて、優しくて、いい匂い。
 僕の周りに立ち込めていた煙草の匂いがふっと、一瞬で消え去った気がした。
「子供のくせに、フェミニストだね」
 僕を優しく包み込んだのは、キィ子だった。
 くすくす笑う。そして、ぎゅっと、包み込んだ。
「ほんと、あんたは馬鹿だね」
 少しずつ。
「そのくせ、人が我慢しているところを的確についてくる」
 少しずつ。
「針で、とがった針で、そこだけを」
 少しずつ。
「痛いね、すごく」
 少しずつ。
「でも、優しいね。すごく、優しいね。痛くて、優しい」
 僕を強く抱きしめていった。
 そして、声を押し殺しながら、彼女は泣いた。
 リーダーも、カバ夫も、キィ子が泣いていることに気づいていたと思う。でも、何も言わなかった。
 違う。言えなかったんだ。
 リーダーも、カバ夫も、人で。
 人だからこそ、キィ子の苦しみが分かったんだ。
 キィ子の傷みは、彼らが味わったことのある傷みなんだろうか。
 僕は、目隠しをされている。
 けど、キィ子もそうだけど、リーダーもカバ夫も、辛そうな顔をしている気がした。
 勘だよ、勘。
 僕の勘は、まったく当てにならないけどね。


 どれくらいそうしていただろうか。
 キィ子が必死に鳴き声を押し殺そうとする声だけが、沈黙を破っていた。
 すると、僕の耳にたくさんのバイク音が聞こえてきた。さっきより増えてる。
 ・・・なんだろう?近づいてこない?
 ほら、ブオン、ブオンって。・・・10台は走ってるんじゃない?
 ハーレイごっこでもやってるんだろうか。なんかそういうサークルがあるってテレビで言ってたし。
 なんか黒の革ジャンとか着て、サングラスかけて、道路を我が物顔で走る中年のおっちゃんたち。
 実際見てみたいって思ったんだよね。異様な光景だしって今は関係ないよ。
 キィ子も気になったのか、僕を抱きしめる腕の力が弱まった。カバ夫も「なんだ?」ってうざったそうにぼやいてる。
 そんなとき、携帯電話の着信音が聞こえた。この曲聞いたことある。
 なんだったかな・・・ら・・・ら・・・ラムの・・・なんとか。なんか昔のアニメだった気がするけど。
 まあ、そんなことはどうでもいいや。
 ずうっと鳴っているのに、誰も携帯電話を取る気配がない。うるさいんだから早く取って欲しいな。
 そう僕は思っていたんだけど、事はそう簡単ではなかったらしい。躊躇しながらキィ子が口を開いた。
「・・・誰、から?」
 その声からは焦りが見えた。どうして?
「わからん、知らない番号だ」
 リーダーが言う。
 なおも着メロは流れ続けた。まるで、その電話に出るまで決して鳴り止むことはないように思えた。
「おいおい。なんでこの番号知ってるんだ。これ用に新調した携帯だろ? 誰にも知らせてないはずだろ」
カバ夫が気味悪そうに言った。
「ああ、電話をかけるときもこちら側の番号を通知しないようにしていたはずだ。だから、この番号はこの場にいる三人しか知らない」
「間違い電話?」
 キィ子の言葉に、リーダーは「さあな」と答える。すると、電話が鳴り止んだ。
「やっぱり間違い?」
 しかし、またすぐに音が鳴った。違う音。それは10秒ほどで鳴り止んだ。リーダーの震える声が聞こえた。
「メールだ」
 かちり、かちり。ボタンを押す音が聞こえる。メールを見ようとしているんだろう。
 その動作が嫌に長く感じた。
 リーダーも、カバ夫も、キィ子も、そしてなぜか僕も、息を呑んだ。
 メールの内容を見たのか、リーダーが口を開いた。
「『電話に、出てください。』・・・だと」
「間違い、電話じゃないってことよね、それ」
 キィ子は言いながら、また僕を抱きしめた。不安なんだろうか、少し震えているようだった。
 いったい何が起きているんだろうか。
 僕を誘拐するに当たって、新調した携帯電話の番号とメールアドレスは決して誰にも知らせていないようだし。まあ誰かに知られせたら、解れた糸を引っ張って解いていく様なもの。警察に繋がっていくかもしれない。身元も割れるだろう。
 じゃあ、相手はいったい誰?
 そんな疑問が頭を過ぎる頃、再びラムのなんとかってやつが流れ始めた。
 電話だ。
「・・・取るべきか?」
「無視したほうが良いんじゃない?」
 リーダーの問いに、キィ子が疑問を含めた回答を返す。
 リーダーは無言のままだった。きっと難しい顔をしているに違いない。
 もしそれを取らないのであれば、きっとずっと音楽は流れ続けるだろう。僕は思った。
 メールにあった『電話に出る』まで。
「取っちまえよ」
 カバ夫が吐き捨てるように言った。
「お前、そんなこと言ってもな」
「このままだと延々と鳴り続けるぞ。それこそ携帯の電池が切れるまでな。どこの誰だか知らないが、気味が悪い。モンクのひとつでも言ってやらないときがすまねえな」
「・・・まあ、お前の言うことも最もだ。どこの誰だか知らんが・・・変な業者からだったらマジで怒鳴って、殴ってやる」
 リーダーは子供染みた文句を言いながら、ぽちり、と通話ボタンを押したようだ。アニメソングが途切れた。
「・・・もしもし?」
 不機嫌そうにリーダーは対応する。まあ、無理もないか。なんだか馬鹿にされてる気がするし、第一にどうして携帯の番号、アドレスを知っているのか、不気味な相手でもあるし。
「―――!?あんたは・・・!!」
 応答があったのか、どうしてか、リーダーの声が裏返る。その声は焦りから来ているようだった。
 残念ながら、僕には相手の声が聞こえない。リーダーのうろたえように、キィ子はまた不安になったのか、僕を抱きしめた。
『こんにちは』
「あんたがどうして」
『この番号をってことですか? 簡単ですよ、それ系のエキスパートがこちらにいるんで』
「・・・何のようだ」
『嫌ですね、要求を呑みに来たんです。物は相談なんですが、あなた保険入ってらっしゃいますか?』
「なんだと?」
『保険ですよ、保険』
「入っていたらなんだっていうんだ」
 リーダーの声に、焦り、怒り、恐怖。そんな色が浮かんでくる。やっぱり僕は相手側の声は聞こえなくて、でも、リーダーが調子を狂わしていることだけはわかって、僕は首を傾げる。
いったい相手は誰なのだろう。
 口調からすると、知っている人なのかな。不安そうなキィ子が唾を飲む音がした。
 リーダーが最後のセリフを言ったときだった。
 ドガ!!!
「「「「?!」」」」
 何かが破壊される音が部屋中に響いて、その場にいた僕たちは驚いて声も出なかった。
いったい何が起こったんだ?

「身代金、払いに来ました」

 お母さんの、いつもの調子の声が聞こえた。


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