(6)
「やめろ」
リーダーの声がしたかと思うと、僕の首を絞める手の力が弱まり、すぐに外れた。いや、手が無理やり引っ張られたって感じだ。
「ごほ!がは?!」
僕は前のめりになって、本能的に息をしようと大きく咳き込んだ。
ごつんと頭が床にぶつかる。
苦しかったけど、息をしようと何度も何度も咳き込んだ。床にあった埃まで吸い込んで、更に大きく咳き込む。とめようと思っても、とめられなかった。今の僕の顔は、真っ赤に違いない。
暫くするとやっとこさ落ち着いてきて、大きな咳は無くなり、肩で荒く息をしていた僕の頭上からリーダーの声が降ってきた。
「大丈夫か」
「だい、じょうぶそうに、見える?」
とりあえず顔だけ上げる。目隠しされてるから見えるわけないけど。
「そんな口が叩けるなら大丈夫だな」
リーダー(だと思う)はそう言って僕の頭を軽く叩く。僕はきっ!とリーダーを睨み上げた。目隠ししてるから分かるわけないけど。するとリーダーが少し笑いを含めた口調で言った。
「気をつけることだな、こいつは頭に血が昇りやすい。あまり挑発しすぎると怪我だけじゃすまないぞ?それにお前もそのすぐ手が出るのをなんとかしろ、今殺しちまったらどうしようもねえだろ」
前半は僕にいい、後半はどうやらカバ夫にいったようだ。カバ夫は大きな音を立てて舌打ちした。
「お前もだ、坊主」
「無理だね。僕はこういう性格なんだ。性格って言うのはちょっとやそっとじゃ治るほど簡単なもんじゃない」
言われて、僕はすぐに言い返した。冗談じゃないね、こんなやつらの言うことなんて聞いてやれるか。っていうかむかついたからって殺そうとするのは短気過ぎない?
まあ、ちょっと怖かったけど。
「くくっ!面白いやつだ。だが、少しおいたが過ぎるな」
ひやり、とした冷たいものが僕の、殴られた頬とは反対の右頬に触れた。リーダーの低い声が聞こえる。
「これが何か分かるか?」
「今度は刃物で脅そうって言うの?」
僕の頬に触れているのは、多分だけど刃物だ。ギラリと光る包丁と、切られたときの想像をして、悪寒が走った。けれど僕は声が震えるのを必死で押さえながら、精一杯言い返した。
恐怖していることを悟られると、負けた気分になる気がした。こんな不条理なやつらをいい気にさせるのが嫌なんだ。殺されるかもしれないと思っていても、けれど譲れなかった。正義感とかじゃない。僕がムカつくんだ、そういうことになるのが。
「そうさ」
リーダーは答える。にやりと嬉しそうに笑っているリーダーが容易に想像できて(といっても顔は分からないけど)、僕は悔しくて下唇を噛んだ。
「言っておこう、ここにいるやつらは人殺しをしたことはない。―――けど、半殺しにして務所に入れられたは何度だってある。相手を血塗れにして、顔の原型が分からないくらい殴ってやったこともあったぜ。そうなりたくなかったら、大人しくしとくんだな」
ススス、と、僕の頬に当てられていた刃物が首に沿わせながら下ろされる。ゴクリ、と唾を飲み込まずにはいられなかった。
リーダーは刃物の腹で、僕の首をぽんぽんと叩く。
「ここに、どんな血管が通っているか知ってるか?」
「・・・大動脈とか大静脈とか」
「よく知ってるな。そう、太い太い血管だ。ここが切れると血がシャワーのように吹き出る。まさにシャワーの如くな。そうなると体内の血は一気に無くなり、たちまち出血死だ」
わかるな?
そう言って刃先が当てられる。少しでも滑らせば、ぱっかりと首の身が割れるだろう。脈打つ動脈が切られれば、あっという間だ。
全身に嫌な冷や汗が流れ出す。恐怖が蘇ってきた証拠だ。
「でも」
すっと刃物が首から引いた。でも冷や汗は引くはずもない。
身体は震えているに違いない。あんせ僕の身体は未だ恐怖に支配されているのだから。
「どうしてお前の視界を隠しているか分かるか?」
リーダーの落ち着いた声が聞こえる。
「・・・顔を見られないため」
声が裏返りそうになったけど、ちゃんと声が出たことにはちょっとびっくりした。怖くて堪らないのにね。
「そうだ、それはどういうことか分かるか?」
「・・・人質を、殺す気は、ない。顔を見られなかったら、それは知られてないということだから、逃げる際に捕まる確立がぐんと減る。だから、顔を知らない人質を無理殺す必要が、ない」
たどたどしくではあるけれど、僕はさっき立てていた仮説を言ってみた。
僕ってかなりすごいんじゃない?なんでこんなに声が出るんだろう。自分でもびっくりだ。
「ビンゴだ」
リーダーは未だ前のめりになっている僕の上半身を起こし、正座状態にさせると、壁のほうへ引っ張り、壁にもたれさせた。
「大人しくしとけ。金さえ手に入れば、お前に用はない。すぐにパパとママの元に返してやるから」
リーダーは優しく、諭すようにいうと、僕の頭をがしがしと乱暴に撫でた。そしてやっとこさ、携帯に電話をかけたようだった。
「・・・ああ。もしもし、お宅、万千野さん?」
リーダーの声色が、機械音みたいに変わった。変声機ってやつだろうか。相手側、お母さんの声は聞こえない。
「さっきかけた者ですけど。警察には知らせてませんよね?そう、そりゃあよかった。いやね、お宅のお子さんが目を覚ましましてね」
一旦、言葉を切ると、こつんと頭を叩かれた。痛くはない。僕の耳に携帯電話を当てると、リーダーは小声で僕に囁きかける。
「ほら、喋れ。お前が喋らなきゃ意味がないんだ」
「・・・・・・・」
僕は下唇を噛んだ。
素直に言うことを聞いてなんかやるもんか。そう思った。
未だに僕は意地を張り続けてる。馬鹿だな、とも思ったけど、やっぱり譲れない。頑固者なんだ。
「ほら、喋れよ。また痛い目あいたいのか?」
カバ夫のイライラした声がする。短気なこいつのことだ、黙っていたらまた首を絞めてくるかもしれない。さっきのことを思い出して、ぞくりと背中に悪寒が走る。
ごくり、と唾を飲み込む。
どうしよう。そう迷っているうちに、電話の向こうから声が聞こえてきた。
僕の意地を簡単に解いてしまう、優しい声、聞きたかった声。
『秀、ちゃん?』
―――お母さんの声。
「―――っ、お、母、さん」
『?!秀ちゃん?!秀ちゃん!大丈夫?!大丈夫?!!』
掠れた、今にも泣きそうな声で、僕はお母さんを呼んだ。我慢できなくなったんだ、意地を張り続けることができなくなってしまったんだ。
―――それほど、僕は怖かったんだ。
何度もお母さんは僕に声をかける。心配そうに、何度も何度も僕の無事を確認するように。他にも何か聞いてきたようだけど、僕には聞こえていなかった。お母さんの声がするたびに、泣くのを必死で堪えていたから。
大丈夫だよ、そう声をださなくちゃいけないのに、出なかった。
泣こうとする声を押し殺すことに必死で。
『秀ちゃん!?』
「ま、そんなわけです。おたくの息子さんの命が惜しかったら、3千万、用意することですね。一円も足らなかったら命はないと思ってください。あと、警察には知らせないこと。また電話します」
ぱっと携帯電話を僕の耳から離すと、リーダーはぶつりと電話を切った。
「お前の母親は結構若かったな」
家族は一応目を通しておいたんだ。リーダーは言う。
「だから何?」
軽蔑の含んだ声で、僕は言い返す。
「そう邪険にするな。ただ思ったことを口にしただけだ」
面白い。声がそう言っていた。僕が少しムキになっていることに気づいたようだ。
「3千万も要求するのは無理だって思ったんじゃないの?」
僕は話を変えた。まあ、正直気になっていたことだし。僕の話で3千万も要求するのは難しいって言ってたんじゃなかったか?っていうか、まあ、ごくごく一般の家庭に3千万も要求するほうがおかしいけどさ。1千万は入ればいいほうっていってなかったけ。
僕の考えていることを知ってから知らずか、リーダーがくすくすと笑った。男がそう笑っても可愛くないから。
「頭がいいかと思えば、どこか抜けているな、お前は」
「悪かったね」
「いやいや、別に構わないさ。完璧なガキは可愛くない」
「あんたに褒められても、嬉しくともなんともないよ」
「まあ、聞けや。確かにお前の話じゃ3千万きっかり用意するのは難しいだろうな。と、いうか数時間の間には不可能だろう。だが、お前の両親は、3千万何とか用意しようとするはずだ。でなければ『お前を殺す』と脅したんだからな。そうすれば、少しでも多い金がこっちに舞い込んでくる」
「・・・つまり、脅せば脅すほど、高い額の金を手に入れられるって?」
そういうとこだ。
嬉しそうな声でリーダーは言う。
はん、嬉しそうにしちゃってさ。世の中そんなにうまくいくと思ってんの?
あーもームカつく!きっと警察にも知れてるだろうから、さっさと居場所見つけてくれないかな。
確か、逆探知って言うのがあるんだよね。昨日のドラマでも使ってた。
逆探知をするのには時間が必要だって言ってた。じゃあ、今度電話がかけるとき、なんとかして時間を稼がないと。でも、リーダーは馬鹿だと思うけど、やっぱり状況を把握してるし、逆探知のことちゃんと考えてるんだろうな。さて、僕はどうするべきか。
背にある壁に、全体重を預けて、僕は目を閉じる。視界は暗いままだから、変わることはなかったけど。
「大丈夫かい?」
頭上から声をかけられて、僕は反射的に顔を上げた。それは、ずっと声が聞こえていなかったキィ子だった。
「まあ、なんとか」
「悪いね、不自由させて。本当なら、家に帰ってお菓子食べてる時間なのにね。でも、お金が必要だから・・・」
「お金が必要なら、こんな犯罪犯さなくても、ちゃんと働けばいいんじゃないの?」
どこか寂しそうに言うキィ子に、僕はため息混じりに言った。
だって、ちゃんと働いてお金を稼げば、捕まることなんてないじゃないか。こういうのって、たくさんのお金が入ってくるかもしれないけど、リスクが高すぎるよ。
すると、キィ子が遠慮がちに笑いながら言う。
「そうなんだけどね。世の中そう簡単に職なんて見つけられないのよ。特に、あたしたちのような不良はね。それに、あたしがいるお金は、働いても働いても、必要な量におっつかないのよ」
相変わらず寂しそうなキィ子に、僕は何も言えなかった。目隠しされてるからもちろん分かるわけないんだけど、布の向こうのキィ子は、声と同じように、寂しそうな顔をしているんじゃないかと思った。勘だけどさ。
何がキィ子をそんなに悲しませるんだろう。
「逆探知、されたと思うか?」
少しはなれたところから、カバ夫の声が聞こえた。やっぱり逆探知のこと、ちゃんと考えてるんだね。するとリーダーが、「安心しろ」と鼻で笑うように言った。
「そう通話に時間をかけていない。これはPHSじゃなくて携帯だからな。電源も切ってあるし、余程でない限り、逆探知は難しいさ。ただ、次にかけた後には場所を移るぞ」
そういえばここはどこなのかな。
聞いたって教えてくれるはずないから聞かないけどさ。聞いて、余計なこと聞くなって殴られてもイヤだし。
さっきうつ伏せになったとき、頬に当たったのはフローリングっぽかった。リーダーは「隣人〜」たらなんたら言ってたし、マンションかな。もしくは空き家?うーんどっちだろう。
目隠しされている以上、詮索は出来ない。
考えても仕方ないけどね。
僕はもう一度身体を壁に預け、耳をすませた。
子供の遊ぶ声は聞こえない。
電車の音がする。
通るたびにここが少し揺れている気がするし、近いのかな。
バイクのけたたましいエンジン音が聞こえる。それも一台や二台じゃない。
ち、音だけじゃわかんないや。
「なあ、身代金は誰にもってこさす気だ?」
「そうだなあ、母親が良いかと思ってる」
カバ夫の問いかけに、リーダーが少し思案しながら答えた。
まあ、当たり前だけどお母さん女の人だし、力がないから反抗だって出来ないだろうし・・・。ああ!もう、僕がこんなヘマしなかったら、お母さんを危険な目に合わせたりしなかったのに!!
何かに八つ当たりしたくて、足を伸ばそうとしたら、カバ夫の厭らしい声が続いた。答えるリーダーの声も、凄く厭らしく感じる。
「こいつの母親は、すっげえ美人だったよな」
「ああ、ありゃ誰が見ても美人だ」
「じゃあさ、身代金渡させて、そのまま帰すの勿体なくない?」
「そうだな、それは俺も考えていた」
何の話?
僕は首を傾げる。
意味がわかんないけど、二人の会話は、凄く僕を不愉快にさせた。なんだか、身体の奥底からどろどろとしたものが浮き上がってきて、むずむずする。
「へえ、話が通じて嬉しいよ。やっぱり美人とは一度ヤっておくべきだよな。人妻かあ、なんか燃えるぜ」
「ああ、堪らないんだろうな。子供に危害を加えるって言えば、おとなしく言うことも聞くだろ」
くくっとリーダーが喉で笑う。
気持ち悪い。身体中がむずむずした感覚に支配されていく。
言ってることはよく分からない。けど、どこかお母さんが危ないって気がした。
こいつらはなにをやろうとしてるんだ?
お母さんに何をしようとしてるんだ?
そんな疑問が不快と共に、浮かんだとき隣のキィ子が勢いよく立ち上がるのが分かった。
途端、彼女は二人を怒鳴り散らした。
「あんたら!あたしらの目的はこの子の母親じゃないだろ!?」
「おい、あんまりでかい声出すな。いくら空き家で、普段、ここは不良の溜まり場だからって、不審に思われるぞ」
「関係ない!!」
リーダーの呆れたように、キィ子に言い聞かせる。けれどもキィ子は怒鳴ることをやめなかった。
リーダーとカバ夫の会話に、イラついてるようだった。
「馬鹿なことはやめて、言うのもね!聞いてるだけで吐き気がする!!」
「しょうがねえじゃん、男ってそういうイキモノだし」
「あんたがだれとヤろうが関係ないよ、けどね、あたしは無理やりは大っ嫌いなんだよ!あたしらの目的は金なんだ!この子の母親を襲うのが目的じゃないんだよ!!」
カバ夫の言葉に、更にキィ子は声を上げる。
襲う?
お母さんを殴る蹴るってこと?どうしてそんなこと・・・。
先生が言ってた、襲うって言うのは身体中を触ったりすることだって。
じゃあ、こいつら、お母さんにそんなことする気なの?
冗談じゃないよ!
僕の中でむずむずの次に、ふつふつと怒りが込み上がってきた。
「なんだよ、お前、まわされたことまだ引きずってんのか?
さっさと忘れちまえよ、未練がましい」
「な?! 男のあんたにはわかんないでしょうけどね、あれがどれだけ屈辱的か・・・!!」
「けっ、なんだよ。親父の抱えた借金返すために身体売ってたくせに」
「〜〜っ! あんたみたいな最低なやつに、何が分かるって言うのよ!!散々馬鹿やって、親にまで見捨てられたクズじゃない!!
あんたみたいなやつは、誰にも見向きなんてされないわよ!」
「んだとてめえ!!」
「やめろ!」
今にも取っ組み似合いになりそうなカバ夫とキィ子の間に、リーダーが割って入ったようだった。途端に静かになる。
「二人とも落ち着け。ったく、悪かったよ、お前のことを考えなかった。こいつの母親には何もしない。これでいいだろ」
呆れるように言うリーダーの声には、あまり反省の色は見えなかった。仕方ないから―――そんな感じだった。
「何かして見なさい、ただじゃおかないから。捕まるの承知で警察に言うからね!」
「分かったよ。ホラ、お前も謝れ」
ため息をつき、そう言ってリーダーはカバ夫を促すが、カバ夫は舌打ちして僕らから離れるようにずかずかと歩いて行った(といっても同じ部屋のようだけど)。するとキィ子が嘲笑うようにカバ夫に言う。
「別に、クズには何を言ってもわかんないわよ」
「んだと!!」
途端にカバ夫は反応し、キィ子に罵声を浴びせる。けれどキィ子は鼻で笑って、なおもカバ夫を馬鹿にした。
「あら、自分がクズって認めるの。そうよね、でなきゃ反応なんてしないわよね」
「てめえ、黙って聞いてりゃ!!」
「やめろって言ってるだろ!ここで言い合ってなんになる?!今は金のことだけを考えろ!」
リーダーの怒声で、二人は罰の悪そうに黙り込んだようだった。
カバ夫は壁を蹴ったようで、壁にもたれていた僕の背中に振動が来た。キィ子はまた僕の隣に腰をどっかりと腰を降ろしたようだった。
すると、チン、と音がして、すぐに煙草の臭いが部屋中に広がった。それに連動するようにまたチン、と音がする。それにキィ子が呆れたように口を開いた。
「ちょっと、子供がいるんだから、換気の悪いところで煙草吸わないでよ」
「けっ、吸わずにいられるかよ」
「悪いが吸わせてくれ、俺もやってられない」
「ふん」
キィ子は僕を気遣ってくれてるみたいだった。悪い人かと思ったけど、根っからってわけじゃなさそうだ。
さっきも寂しそうな声していたし。
「大丈夫だよ、お父さんも煙草吸うし、慣れてる」
事実だった。お父さんは時々、煙草を吸う。でもそれは換気扇の下とか、ベランダで、だけど。
なんでそんなところで吸うのかと聞いたら、「吸わない人にも煙草の煙は身体に悪いから」って言ってた。
つまり、お父さんは僕とお母さんが煙を吸わないようにしてるんだ。
だから正直に言うと、煙草の煙には慣れてない。
僕が言うと、キィ子は苦笑いを含めた声で、「悪いね」と言ってきた。
「あーほんとごめんね、痛かっただろ?」
キィ子は僕の殴られた左頬を優しく撫でた。カバ夫とは違って、温かくて柔らかい、優しい指だった。
―――お母さんみたい。
なんとなく、そんなふうに感じた。
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