(2)

 高学年は六限目まである。早くに帰れる低学年が羨ましくて仕方ないよ。
 ともかく六限目国語が終わって、帰りのHRが始まった。
 今日の宿題である算数のドリルを集配係の子が皆に返している間に、藤木先生がザラ半紙のプリントを配っていた。前から渡されたプリントに目を通しながら後ろに渡す。
「あー最近は色々物騒だからな、気をつけて帰りなさい。それは帰ってお父さんやお母さんに絶対見せること。特に徳輔!お前が一番心配なんだからな!!忘れるな!」
 先生に言われて、とくちゃんは口を尖らせて、ブーイングした。途端、周りから笑いが起こる。
 プリントの中身は「不審者について」と書かれていた。
「春になれば、変な人たちも出てくるんだ。お前たちは大丈夫とか思っているかもしれないが、案外こういうことは身近に起きる。自分たちに起こるかもしれないんだ。いいかあ、絶対に一人で帰るな!何かあったら大声で叫びなさい」
 先生は念押しして「起立!」と声をかけた。
 いっせいに椅子を引く音がする。礼をすると、とくちゃんが帰る皆をかき分けて、僕のほうへやってきた。
「春になると変な人が出るって、虫みたいだな」
 とくちゃんはケラケラ笑う。
「コートの下、何も着ないのって変な感じしないのかな?」
「・・・お前、なんか論点ずれてね?」
 僕が言うと、とくちゃんは呆れた。
 だって何が楽しくて、自分の裸なんて見せるんだろ。
「いいかあ、変な人っていうのは何も自分の裸を喜んでみせるやつだけじゃないんだぞ」
 いつの間にか藤木先生が僕たちの傍に来ていた。藤木先生は僕の頭をぽんぽんと叩く。
「・・・じゃあ、他にどんな変な人がいるんですか?」
 僕が聞くと、先生は難しい顔をした。どういえばいいか分からないという顔だ。
「そうだなあ、攫うとか、襲うとか」
「殴る蹴る?」
 僕が言うと、また先生は難しい顔をした。
「いや、それもあるんだがな。身体中を触ってくるとか」
「痴漢?」
「まあ、そうだな。痴漢だ」
「・・・全然知らない人の身体触って何が楽しんだろう」
 分からない。
 僕が難しい顔をしているのを見てか、先生は苦笑いした。
「まあ、人それぞれだろうな。でも触られる人は嫌だし、気持ち悪い。ともかく気をつけなさい。特に秀善。お前はお母さんに似てかわいい顔をしているからな」
 そう言って先生は僕の頭を、またぽんぽん叩いた。ちょっと先生、男の子に向かってかわいいはないんじゃないの。僕気にしてるんだからね、女の子と間違われるの。
 そんな僕の心を知らないとくちゃんが、首を傾げる。
「何で知って・・・って、ああ秀の父ちゃんと先生は友達だったっけ?」
「うん。高校時代のって、お父さんが言ってた」
 お父さんと藤木先生は高校時代の同級生らしい。五年生になったとき、担任の先生の名前をお父さんに教えたら、そう聞かされた(ちなみに先生は独身)。―――といっても、お母さんが言うまでお父さんは気づかなかったようだけど(つまり先生の存在を忘れていた)。
 でも、どうして高校の違うお母さんが、お父さんの同級生の先生を知っているんだろう。お父さんが憶えてないところを見ると、お父さんと先生はそんなに親しくなかったってことだろうし(お父さんは興味のないことは途端に忘れるタイプだけど・・・)。
「ああ、秀善のお父さんとは同級生でなあ・・・。なんというか、よく分からん男だったな」
 いつも無表情だし、ぼけーっとしてたし。先生は言う。
 先生、無表情でぼけーっとしてるところは今でも変わってませんよ。
 僕は心の中でこっそり突っ込む。
「ねえ、先生。秀の父ちゃんと母ちゃんのこと知ってるんだったら、どうやって知り合ったか知ってる?」
 とくちゃんがわくわくした顔で、先生に尋ねる。とくちゃんは好奇心旺盛だなあ・・・。
「さあ、詳しくは知らないけど・・・噂では・・・」
「噂では!?」
 急かすとくちゃんをよそ目に、先生は僕を横目で見る。なんというか渋い顔だ。
 先生はしばらく考える素振りを見せたあと、鼻から勢いよく息を吐き出した。
「いや、やめておこう! さ、お前らもさっさと帰れ! 暗くならないうちにな」
 そう言って先生は僕ととくちゃんの背中を押す。すぐにとくちゃんの講義が起きるのは当然だった。
「えーーー?!もったいぶっといてそりゃないよ先生! それに春になったんだから、そんなに簡単に暗くならないって!!」
 けれども先生はとくちゃんの言葉を軽く流して、僕たちを教室の外に押し出した。とくちゃんを見れば、ほっぺたをリスみたいに膨らませていた。とくちゃんのほっぺたにはどれくらのどんぐりが入るかな?


 学校にあった石を蹴りながら、とくちゃんはまだ文句を言っていた。
 もう家はすぐそこだというのに。
「あーあ!なんだよ先生、はぐらかしやがって!!」
 でい!っと蹴ると、石は電柱に当たって跳ね返った。僕たちはその横を通り過ぎる。どうやらとくちゃんは石を蹴るのに飽きたようだ。
「別にいいじゃん。知っても知らなくても、何も変わんないでしょ」
「だー! お前には好奇心というものがないのか?! いいか、世の中って言うのは無駄知識ってのが無限にあふれてるんだ! 知ってたらちょっとお得と感じるだろ?!」
「知らなくてもいいから無駄知識って言うんでしょ。第一に僕のお父さんとお母さんの馴れ初めを知ってお得だと感じるの?」
 力いっぱい主張するとくちゃんに、僕は盛大にため息をついて見せた。でもとくちゃんは気にすることなく続ける。
「ああ、お得だとも!!ご近所で人気の美人夫婦のことを知ってたら、何か得な感じがする!」
 それはとくちゃんの勝手な見解じゃ・・・。
 と思ったけど、もう口に出すことはやめた。言い返してもキリがなさそうだ。
 あれやこれやととくちゃんの主張は続いたけど、僕は軽く相槌を打って受け流し続けた。そうしている間に、とくちゃんの家に着いた。
「おい、秀、家寄ってくか?」
 ゲームしようぜ、とくちゃんは言う。でも僕は首を横に振った。
「いや、いいよ。このまま真っ直ぐ帰る。宿題もいくつか出されてるし」
 なによりこのままとくちゃんと一緒にいると、延々とお父さんとお母さんの話をされそうだ。とくちゃんは一度決めたらまっすぐに進むタイプだから。
 そんな僕の胸の内も知らずに、とくちゃんは「真面目だなー」と眉と口をへの字に曲げていた。
「いいじゃん、これを気にとくちゃんも少し真面目になりなよ。せめて宿題を自分でやる程度には」
 ケラケラと、僕が笑って見せるととくちゃんは「うるさい!」と怒鳴った。僕は笑ったまま家に向かって足を進めようとした。
「あ、待てよ秀! いいか、お前の父ちゃんと母ちゃんの馴れ初め、絶対に聞き出してこい!絶・対だぞ!」
「ええ〜嫌だよ、面倒くさい」
「宿題のほうが何倍も面倒だ。絶対だからな!」
 ばいばい、というととくちゃんはさっさと家の中に入ってしまった。
 断る間もなかった。
 家のドアを開けて無理やり断る手もあったけど、そこまでするのはずうずうしい気がしてやる気はなかった。
 僕はため息をついて、家に帰ることにした。


「ただいまー」
 玄関のドアは開いていた。ドアノブを倒して引く。カチャリと音がした。鍵が開いているということは、お母さんのパートの仕事は午前までらしい。
「はいはーい、お帰りー」
 エプロン姿のお母さんが、嬉しそうに出迎えてくれた。
 ふわふわしたウェーブのかかった長い髪に、白い肌。丸い目に長い睫・・・。
 息子の僕がいうのもなんだけど、お母さんはかわいいと思う。けど、それは母親似の僕が自分で自分のことをかわいいといっているようで、あまり認めたくはないけれど・・・(髪はお父さんに似たのか真っ直ぐ)。
「クッキー焼いたのよ、食べる?」
「ココア味ある?」
「あるあるー」
 ころころと笑うお母さんと一緒にリビングに入ると、クッキーのいい匂いがした。
「手、洗いなさいね。ストレートかレモンティー、ミルクティーもあるけどどうする?」
「レモンティーがいい」
 僕は言って、ソファにランドセルを置くと、洗面台に向かった。蛇口を捻ると水が勢いよく流れ出す。少し緩めて、石鹸で手を洗った。
 洗い終えてリビングに戻ると、テーブルの上にはアイスレモンティーとクッキーが用意されていた。僕は椅子によじ登って座り、手を合わす。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 お母さんは、クッキーを頬張る僕を嬉しそうに見ながら、ホットレモンティーを口に含む。
「今日は学校からのお手紙ない?」
「あ、あるある。ちょっと待って」
 お母さんの言葉で、僕は帰りのHRで渡されたプリントのことを思い出した。クッキーの上で手を払って、少しレモンティーを飲み込むと、椅子から飛び降りた。
 ランドセルに入れてある、プリント用の緑のクリアファイルから例のプリントを取り出す。テーブルに戻ってお母さんに手渡したあと、また椅子によじ登った。
 お母さんはプリントに真剣に目を通していた。まるで睨みつけるみたいに。
 プリントの中は難しいことが書かれていて、よくはわからなかったけど、やっぱり不審者ってのには気をつけなくちゃならないのかな。
「秀ちゃん、気をつけなさいね。変な人が出てるみたいだから」
「うん、先生も言ってた。でも僕男の子だし大丈夫じゃない?」
 女の子とかなら、変なおじさんとかが攫ったりするんだろうけど、僕は男の子だし。
 でもお母さんは首を横に振る。
「最近の人はね、男の子でも女の子でも、攫ったり襲ったりしてくるの。小学生とかは性別に関係なくかわいいからねえ」
 お母さんは困った顔で、プリントを眺めていた。
 ―――そういうもんなんだ。
「防犯ブザーかなんか、持たせたほうがいいかしら」
「えー、いらないよ。そんなのー」
「こおら、備えあれば憂いなしって言うでしょ。持てるものは持っとかなきゃ」
 僕はほっぺたを膨らませた。
 何で使うかどうかも分からないもの持ってなきゃならないんだよ。邪魔に決まってる。
「でもねえ」
「ねえ」
 続けようとするお母さんの言葉を無理やり遮って、僕はとくちゃんから頼まれたことを思い出す。聞く気はなかったけど、この際話を切り上げさせる材料にさせてもらおう。
「お母さんとお父さんはいつ知り合ったの?」
「え?どうしてそんなこと・・・」
「いいから」
「確かー・・・夜よ」
 ゴン!
 僕はテーブルに思いっきりおでこをぶつけた。そういうこと聞いてるんじゃないくて・・・。
「・・・どこで?」
「道路」
 ゴン!
 本日二度目。
 だからそういうことを聞いてるんじゃなくて・・・。
 まあ、確かに道路だろうよ。家の前だって道路なんだから。
 ぶつけたおでこを擦りながら、僕は顔を上げる。原因のお母さんは心配そうな顔で、僕のおでこに手を伸ばしていた。
「まあ、秀ちゃん大丈夫?」
 ―――誰のせいだ。
 と思ったけど、喉の奥で止める。僕のおでこを撫でてるお母さんに言ったところで首を傾げるだけだ。
 結果的に話はズレたんだから、よしとしよう。
 僕は残りのクッキーに手を伸ばした。


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