(1)

 僕のお父さんは、非常に無表情で無口である。
「おはよう」
 と、僕が朝の挨拶をすると、にこりともせずに、「おはよう」と返してくる。
 対して、ぼくのお母さんは非常に表情豊かでお喋りである(でも、よくよく考えると普通なんだと思う。お父さんが喋らないから、お母さんがお喋りに感じるのだ)。
「おはよう」
と、僕が朝の挨拶をすると、満面の笑みで、「おはよう!」と語尾にハートがつく勢いで返してくる。

 僕は万千野秀善。まちのしゅうぜんね、ひでよしじゃないから。11歳。極々平凡な小学5年生である。
 システムエンジニアで31歳の父、万千野考善。
 無愛想だけど、近所の奥様方には美形だと人気がある。
 スーパーでパートをする30歳の母、万千野美乃里。
 こちらもいつも笑顔が可愛らしく、愛想も良いと奥様方に人気である。
 僕はそんな二人の夫婦の間に(当然だが)生まれた、母親似の男児である(ゆえに僕はよく女の子に見られる)。
 無口な父と、お喋りな母。
 二人がどうやった経緯で出会い、結婚したかは定かでないけれど、ミスマッチした夫婦は・・・

「あなた、今日は秀ちゃんの好きなハンバーグだから、早く帰ってきてね」
 コクン
「あなた、帰りにアイスクリーム買ってきて、秀ちゃんの好きなチョコアイスは絶対ね」
 コクン
「あなた、ピーマン嫌いだからって残さないで」
 コクン

 お母さんが一方的に何かを言い、お父さんは黙って頷く。といった感じで、問題なく夫婦の仲は成り立っているんだからすごい。お母さんはお父さんの顔にはちゃんと感情が出てるって言うんだ。確かにお母さんはどう見ても無表情なお父さんの感情を読んでるんだ(だからこそ、夫婦仲が成り立っているんだろうけど)。
 二人の子どもである僕が言うのもなんだけど、なんとも変わった夫婦だ。

 僕はお母さんが作ってくれたご飯と野菜炒め、お味噌汁を平らげ、手を合わせる。
「ごちそうさま」
 自分にとって少し高い椅子から飛び降りて、用意していたリビングにあるランドセルに手を伸ばす。
「秀ちゃん、忘れ物はない?」
「ないよー」
 お母さんの確認に、少し考えを巡らせてから答える。三時限目にある体育の体操服もちゃんと入れた。給食用のお弁当箱もちゃんと入れた。うん、完璧だ。
「はい、じゃあ気をつけて行ってらっしゃい」
「はーい、行ってきまーす!」
 玄関でしっかり靴を履いて、立ち上がる。お母さんの笑顔に、僕も笑顔で答える。
 ドアを引こうとすると、大きな手が、僕の頭に触れた。
「気をつけて行ってきなさい」
 いつの間にか来ていたのか、お父さんが僕の頭をポンポンと軽くたたいてくれた。
 無口で無愛想な顔のお父さんだけど、僕は知ってる。
お父さんは――お母さんももちろんだけど――とっても優しいってこと。
 思わず笑みが零れる。
「うん!!」


 同じ居住区にある、とある家のインターホンを押した。
 10秒くらい経って、若い女の人が出てきた。僕はそれに答える。
「おはようございます。秀善ですけど、とくちゃんは・・・」
『あら、おはよう、秀ちゃん。ちょっと待ってね、あの子ったらまた昨日のうちに用意してなくて・・・』
 すまなさそうに言うおばさんに、僕は「まだ時間あるから大丈夫ですよ」と笑って言った。
『ほんと、ごめんなさいね』
 そういうおばさんは、インターホンを切る。瞬間
「くおらーーー!!徳輔―――!!?秀ちゃん来てんだよ!?早くしやがれ!!!」
 と、家の中から罵声が聞こえてきた。
 でも僕は苦笑いするだけで、動揺はしない。だっていつものことだから。
 紀矢部徳輔――通称『とくちゃん』。
 僕が二歳ぐらいのころに、こっちに引っ越してきたとき、幼稚園で知り合った男の子の幼馴染だ。町内の子ども会も一緒だからよく遊んだりする。少し丸顔で、ガキ大将みたいな顔つき。性格もガキ大将みたいで偉そうで、喧嘩をふっかけられると絶対に買う。周りは短気なところを何とかすべきだって言ってるけど、僕は知ってる。とくちゃんは自分に対していやなこと言われても気にしないけど、友達のことを悪く言われると黙ってられない性格なんだ。
 そんな優しいとくちゃんが、僕は大好きだ。
 僕がとくちゃんを迎えに来るのはいつものことで、とくちゃんに僕が待たされることもいつものことだ。
 だから僕は待たされる時間を計算して、早めに家を出ることにしている。5分、ひどいときには10分は待たされる。
 でも僕は気にしない。
 とくちゃんと一緒に学校に行きたいし、走れば絶対に間に合う。
「わかってるよ!!うっせえな、くそばばあ!?」
「あんた母ちゃんになんて口きいてんだい!!!」
 とくちゃんのおばさんのやり取りがしばらく続いたあと、きい・・・とドアが開く。
 僕は出てきたとくちゃんを見て、呆れた。
「また殴られたんだ」
「おまえもうるせえなあ」
 とくちゃんの頭には大きなたんこぶができていた。たぶんおばさんに殴られたんだ。これも一度や二度じゃない。
「俺んとこの母ちゃんはおっかないよ、お前の母ちゃんがいいなあ・・・」
美人だし、優しいし・・・。
 とくちゃんは言う。
 確かにお母さんは優しい。けど、悪いことすれば怒るよ。あんまり怖くないけど・・・。
 殴りはしないけど、おもいっきりほっぺたを引っ張ってくる・・・。これはちょっと痛い。

 僕ととくちゃんは通学路をテクテクと歩き出す。とくちゃんが出てくるのがいつもより早かったから走らずに済みそうだ。他にもランドセルを背負った他の小学生が登校を始めていた。
「今日の体育何するのかなー」
 僕が言うと、とくちゃんはうーんと考え始めた。
 この前はドッヂボールをした。僕はスポーツが大好きだから、逃げるのも投げるのにも自信がある。
 最後まで逃げ切ったし、何人も外野送りにした。
「俺、野球がいいなー」
「僕はバスケットがいい」
 とくちゃんが言うと、僕はすぐに否定の言葉を発した。
 だって野球は順番が回ってくるまで待ってなきゃならないし、だったらずーっと動き回っているサッカーかバスケットがいい。身長が低いからちょっと辛いけど・・・。
「ばっか野郎!野球こそが男のスポーツだぞ!?」
「わけが分からないよ。まあ、好みなんて人それぞれだろうけど・・・」
 僕は話がややこしくなりそうなので、早々に切り上げる。けれどとくちゃんは納得してないようで、「野球とはな〜」と語り出した。
「デーブブルースがなあ・・・」
「デーブじゃないよ、ベーブルースだから・・・。デーブは日本人だよ。デーブ大久保」
 自信満々に間違えるとくちゃんに、呆れながら訂正する。
 そんなことをしつつ、近くの通っている小学校に着いた。小学校が近い分、二年後に通うことになる中学校が30分はかかるからちょっと嫌だ。
―――仕方ないけど。
 下駄箱で上履きに履き替えて階段を登る。上級生は三階の最上階。下級生のときは上にいる上級生が羨ましく思えたけど(小さいころっていうのは何かと高いところに憧れる)、今では一階のほうが楽だと心底思う。
 とくちゃんと僕は、同じクラスだ(というか少子化のため、もう二クラスしかないから一緒になる確率はそれなりに高い)。もう何人かは教室にいて、仲良くお喋りをしていた。昨日のドラマの話とか、好きなアイドルの話とか(こういうこと話すのは大概は女子だ。男子はロボットアニメとかゲームとかポケモン(あとデジモン)とかの話で盛り上がる)。
 僕が自分の席に持ってきた教科書とかを入れていると、とくちゃんが歯を見せて笑ってやってきた。
「おい、秀。算数の宿題やったか?」
「・・・とくちゃん、またやってないの?」
 とくちゃんが僕に宿題をやったか確認するときは、答えがあってるかを確かめるんじゃなくて、宿題を見せくれというコールだ。
 やってきなよと言いつつ、宿題を差し出す自分は甘いんだろうか。
 とくちゃんは早速僕の前の席で答えを写し始めた。前の子が来たら絶対邪魔だろうな。
「サンキュ! いやあ、昨日はゼルダを越すのに必死でさあ」
とくちゃんは笑う。
「昨日『は』、じゃなくて、昨日『も』でしょ」
 僕は呆れる。
「自分でやらなきゃ身につかないよ。それに僕の答えが絶対にあってるとは限らないんだからね」
「お前はそういいつつ答えはちゃんとあってるぜ。それに算数なんてできなくても生きていけるよ。ようはどう口をうまく使うかだ。口がうまければ信用をとりやすい」
「逆に口がうまいと信用もされないよ」
 ため息をついて残りの教科書を机の中に入れる。
「お前は子供らしさがないな、子供は世間知らずなほうがいい」
「とくちゃんは子供過ぎだよ、もうちょっと世間を知ったほうがいい」
 売り言葉に買い言葉。
 僕が言うと、とくちゃんは返す言葉が見つからないのか、宿題を写すことに専念し始めた。
勝利のゴングは僕に鳴った。
 とくちゃんは自分で口がうまいなんていうけど、結局は僕に言い負かされてる。とくちゃんとは殴り合いの喧嘩で負けたことは何度かあるけど(言っとくけど勝ったこともあるよ。むしろ僕のほうが強い)、口喧嘩で負けたことはない。
 果たしてそれは僕の口がうまいのか、とくちゃんの口が弱すぎるのか・・・。とくちゃんは前者だと主張するけど、僕は後者だと主張する。
 お母さんに勝ったことないなんだもん。
 母親相手なんて当たり前だと思うかもしれないけど、本当に言いくるめられて返す言葉が見つからないんだ。
 そしてお父さんにも勝ったことがない。(喧嘩らしい喧嘩はやっとことはないけど)お父さんは無言の圧力(っていうのか)があって、何を言えばきくのか分からないんだ。それなりに(お母さんほどじゃあないけど)お父さんの表情は読めるつもりでいるけど、やはりあの変わらない表情には適う気がしない。
「サンキュ。写せた」
 僕がそうこう考えているうちに、とくちゃんは僕の宿題を写し終えたようだ。なんとも早い。
 僕はとくちゃんのドリルを覗き込む。
「・・・とくちゃん、なんて書いてるかわかんないよ?」
 ドリルの中では、まるでミミズがのたくったような字が書き並べられていた。いや、暴れまわっていた(少なくとも、僕にはそう見える)。
「うるせえなあ、俺が読めればそれでいいんだよ」
「残念だけど、これ提出だよ」
「・・・・・・・書き直す」
 四年生のころの藤波先生だったら、とくちゃんはそのまま提出していただろう。藤波先生は優しい、というより気が弱い。だから生徒にからかわれまくっていた(学級崩壊は起きなかったけど)。だから字が汚くても怒らない(というか怒る勇気がない)。
 けれど、五年生になってからの藤木先生は男の先生なんだけど、これが怖い。見かけはドラマの体育会系のジャージ姿の先生なのに、中身はまるで教育ママだ。
 字が汚ければゲンコツ(かなり痛い)。宿題を写したり、忘れたりしたらゲンコツ二発(やっぱ痛い)。そして人に酷いことしたり、言ったりしたら、ゲンコツ五発(見てるこっちが痛い)。―――同じ「藤」なのにえらい違いだ。
 でもそれは生徒を思ってやってることなんだと思う(再放送の金八先生とか見てると)。それに生徒の悩みには真剣に相談に乗ってくれて、一緒に悩んでくれる、優しい先生なんだ。
 とくちゃんは上記で行くと、合計五発喰らうことになってたね。さて、これがバレれるかどうかが見物だなあ。
 一生懸命丁寧に書くとくちゃんの後姿を見て、僕は必死に笑いを堪えた。

 体育は僕が期待していた通りにはならなかった。もちろん、とくちゃんが期待していた通りにもならなかった。
 授業内容はキックベース。ほとんど野球と一緒だから、これもつまらなかった。
 ランニングホームランを出すぐらいの活躍を見せて、僕がホームに戻ってくると、打席を終えていたとくちゃんがむっつり顔で僕を出向かえた。
「なに?」
「お前はどうしてそう、なんでもできるのかなあ」
 とくちゃんは首を傾げる。ちなみにとくちゃんは打ち上げてしまって全部アウトだ。
「体育も、算数も、国語も、理科も、この前始まった英語も。全部出来んじゃん」
「芸術系は苦手だよ」
 腕を組むとくちゃんに、僕は呆れる。
 そりゃあ、テストは全部100点とるよ。でもそれは周りも皆とってるし、別に僕が特別なわけではないと思う。まあ、とくちゃんの点数はいつも悪いけど。
 それに僕はべつになんでもできるわけじゃない。はっきり言って図画工作は苦手中の苦手だ。音楽は好きだけど、楽器を使うのはちょっと・・・。
 僕はどっかりととくちゃんの隣に腰を下ろす。次の打席の女の子が、ボールを蹴っていた。あれは安打だ。
「今日の算数のテスト、どうだった?」
 一限目にあった算数の抜き打ちテスト。クラス中からブーイングが上がったのは当たり前のことだった。けど、それは昨日の宿題のドリルから丸々出されていたから、答えが間違っていない限り、考える時間は短縮されたはずだ。
「できたと思うけど?」
「かー!俺さっぱりわかんなかった」
 僕の答え写しておいて、気づかないんだもんなあ、とくちゃんは。
「そういやあさ、思ってたんだけど。お前のと父ちゃんと母ちゃんは、どういうふうに結婚したんだろうな」
 とくちゃんは前触れなく話題を変えることがある。僕はもう慣れっこだから何も言わないけど、他の人はよく戸惑う。
「どういうふうって・・・そりゃあ普通に結婚式挙げたんじゃないの?」
 実は僕は僕が生まれる前の両親の写真をみたことがない。見せて、と言ったこともない。ようは興味がないのだ。
「いやそうじゃなくてだな、お見合い結婚じゃないんだろ?学校も違うってお前言ってたし、お前の父ちゃんの性格考えると、ナンパしたとも思えない。じゃあ、どういうふうに知り合って気があったか、だよ」
「うーん、あんまり気にしたことないから聞いたことないなあ・・・」
 校舎の壁にある時計に目をやる。ああ、もう終了のチャイムが鳴るな。
「お父さんとお母さんは、あれで成り立ってるから変わり者夫婦としか思ったことないし。っていうか、そういう二人だって決め付けてるから」
「お前、一応自分の両親なんだから・・・」
「だって考えたところで仕方ないじゃん。僕はお父さんとお母さんがうまくいっているだけで嬉しいし」
「お前はやっぱり子供っぽくない」
「子供のとくちゃんがいってもねえ・・・」
 僕が言うと、とくちゃんは、「なんだとー!」と拳を振り上げた。僕がケラケラ笑っていると、終了を告げるチャイムが学校に響いた。


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