第8話 スイートピー(ほのかな喜び)


 滝のような雨の中、雨音に負けじと二人は同時に声を張り上げる―――。


「フリージアのボーカルの人!」
「コウがゆっとったあの娘!」

 同時に思い出したのだろう、ふたりの声はきれいに重なった。
「あーすっきりしたーって…コウ?」
 声は重なったものの、青年の言葉もしっかり聞き取った華果は首を傾げた。
「あ、いや…」
 華果の疑問に青年はバツが悪そうに視線を泳がせた。必死に言い訳を探しているように見えた。
「その、ダチがいっとった娘に似とるなーって思っただけや」

 ―――だから納得し?
 彼の引きつった笑みはそう言っているように思えた。

「はあ…」
 わけの分からないまま、華果は頷く。

「(ふぅーうっかり口走ってしもたわ…)」

 青年――和武は心の中で、流れた汗をふいた。
 いかんいかん、と和武は心を落ち着ける。
「あの…」
「ん?」
「フリージアのカズ…さんでいいですよね?」
「そうそう〜大当たりやで!」
 和武はにっこりと華果に笑顔を向けつつ、内心自分で呆れていた。

「(そういや、俺、テレビにでとるんやった…)」
 
 最近になって人気は出てきたが、大人気、というわけではないし、生活に何か大きい影響が出ているわけではないので忘れていた。
 街に出ても「フリージアのボーカルの人ですよね?」と聞かれる程度だ。とあるバンド仲間は追いかけられたことが言っていたが、人見知りの激しいやつのことだ。きっと話しかけられてびっくりして、逃げてしまったのだろう。

 それにしても…
 ちらりと華果を見ると、彼女はきょとんとした顔で、和武を見上げていた。

「(この娘がコウの言うとった『華果ちゃん』か…)」

 自分の幼なじみでバンドリーダーの、小器用なあの男を思い出す。
 あの男は嬉しそうに彼女が映し出された、明らか隠し撮りの携帯画面を自分に見せた。

 ――あいつが惚れた娘だと

「俺んこと知ってるんやったら、ファンやって思っていいんかな?」
なんともわざとらしい演技と自分でもつくづく思う。彼女が自分のファンでないことは充分承知している。
 自分を知っているのは、他でないやつの存在があるからだ。
 あのリーダーが店に行ったとき、彼女は気づかなかったらしいが、自分はボーカルだし、何かと中心で映るから憶えていたんだろう。

 案の定、彼女は困ったように眉を下げた。

「えっと、そのフリージアの人で、知り合いの方がいて…」
「え?まじで?誰なん?」
 急かすように彼女に問いかける。
 なんと意地が悪いのだろうか。

 全て知っているのに。

「あの、ギターの…そうじろ…ソウさん、なんですけれども…」

 おどおどと彼女は答える。
「へー、ソウの友達やったんや」
感心したような顔をしながら、内心にやけて仕方なかった。

 ―――あいつ本名教えたんや

 しかも本名で呼ばれているようだ。テレビや、ファンに呼ばれている名前ではなく。
 そりゃあ、もちろん自分たちも同じように名前を呼ぶが、長ったらしいのであだ名で呼ぶ。
 それはテレビやファンとは違った親しみがあった。

「お友達…なんでしょうか?」
「え?ちゃうん?何々?彼女とか??」
 嬉しそうな、けれども少しイヤらしい笑顔を向けて問いかけるが、彼女は「違います!」と顔を真っ赤にした。
「そ、そんな彼女とかじゃなくて…。ただ、よくお店に来てくれるので…」
「…キャバクラ?」
「違います。花屋です」

 不意に発した言葉に、華果はぎろっとした目を向けた。
 それにたじろぎつつも、和武は乾いた笑みを浮かべながら「すまんすまん」と謝った。
 女、通いとくると、知っているくせにそんな考えにいたってしまう自分が厭らしい。

「花屋なんや。あーどうりであいつの部屋が花で埋め尽くされていくわけやな…」
「え?そうなんですか?ガーデニングにはまってるとは聞きましたけど…」
「あーうん、らしいな。なんかはまったらとことんやりつめるタイプやから…。仕事で家に帰れんときは水遣り大家さんにたのんどったがな…」

 うんうんと和武は何度も頷いた。
 大家さんは契約会社の関係の人なのでたぶん信用できるだろうが、人見知りが激しいくせにどこかで警戒心がない友人に、和武は呆れる。

「で、えーっと華果ちゃん?はソウと友達なんやな?」
「そうなんですかね…?」
「だってそうやろ、よう店に来て話したりするんやろ」
「はい、結構…」
「せやったら友達やって。やってよう店来てよう喋って、楽しかったりするんやろ?」
「はい、それはもちろん」
 華果は何のためらいもなく頷いた。
 彼と一緒にいると、とてもたのしい。彼が優しいからだろうか、それはわからないが、とても楽しい、幸せな気分になる。
 また、彼が訪れない日は、寂しくあったりする。

 心のどこかで、彼が来てくれることを願っているのだ。

「(はっはーん、これは脈ありか?せやったら応援したらなあかんなー。といっても、そう簡単にはいかへんようにしたるつもりやけど)」

 まだ思いを馳せていた華果は、目の前にいる彼の怪しい笑みに気づくことはなかった。

「そっか、ほんじゃあ今日であったこと記念してアドレス交換せいへん?」
「へ? え? で、でも…」
 突然の申し出に、我に返った華果だったが、それでもその内容に戸惑いを見せた。
「ああ、大丈夫、変なところにアドレス売ったりせいへんし、妙なメールも送ったりせいへんて。ストーカーまがいなことも、まずせいへん」
 けらけら笑う和武に、華果は、ただ呆然と頷くことしかできなかった。
 まあ、確かに目の前にいる彼が、そんなことをするはずもないような気もした。
「あ、でも今ここで交換するより、ソウに聞いたほうが早いかな…」
「え?」
「その方が登録も楽やし…」
「あ、え、あのっ…」
「ん?どないしたん?」
「私、総次…ソウさんのアドレス知らないんですけど」

「…………へ?」

 和武は思わず目を点にした。
 文字通り目を点にしたのだ。

「な、なんなんそれ?!しらへんの?!」
「え?あ、はい。やっぱり店に来てくださるだけですし…」
 事の重大さに気づいた和武は、すごい勢いで、華果に食らいついた。あまりの剣幕に、華果はただ、おろおろするしかない。
「何やってんねんあいつ!!」
 今すぐ件の当事者に喰らいついて「アホか!」と罵ってやりたい。
 いいや、関西人は「阿呆」ではあまりダメージを受けないので「馬鹿」と叫んでやりたい。

「(どこまで奥手やねん!)」

 総次郎の性格に、やるせない想いが爆発しかけて、和武はがしがしと頭をかいた。そんな和武を華果は理解できないようで、きょとんとしていた。
「とにかく、華果ちゃんはソウのアドレスも、番号もしらへんねんな?」
「はい」
「あーーーー!!」
「!?」
「よしっ!じゃあ、俺らだけでも交換しよ!んでもって交換したことは内緒な!ここで出会ったこともや!」
「え? は、はあ…」
 何故内緒にするのかわからなかったが、あまりに和武の勢いに押されすぎて、華果はただ頷くしかなかった。
「ふ、こうなったらとことん遊んでやる、あいつで!」
 何を怒って何に燃え上がってるのか、やはり華果には分からなかったが、それでも和武が何かを決意した目であったとこは、なんとなく理解した。

「あ、雨やんどるわ」
「え?あ、ほんとだ」
 ここが、というより和武が賑やか過ぎて、雨の音を忘れていた。
 まだどんよりした空ではあるが、雨は上がっていた。
「よし、これを逃したらますます帰れへん。とりあえず、華果ちゃん携帯貸して」
「あ、はい。どうぞ」
 華果はごそごそとポケットから赤い携帯電話を取り出すと、そのまま和武の手に委ねた。
 和武は自身の携帯と華果の携帯とを器用に操り、すらすらと登録を済ませていく。
「華の果実、ってかくんか、おいしそうやな」
「はあ…」
 時々、わけの分からない感想を洩らしていたりしたが、それでもスピードは落ちなかった。
 その鮮やかさはまるで自分の母親のようで。

「(そういえば、お母さんて総次郎さんのアドレス、知ってるんだっけ?)」

 目の前で交換していたのだから当然であろう。
 なんとなく考えると、気持ちの悪い、もやもやとしたものが胸の中に広がる。

「(…お母さんと、総次郎さんが絡むと、いっつも気持ち悪くなるのよね)」

 それが何かはわからないけれど、ただ漠然と、その二人が何かに関係しているだけで「嫌」だった。

「(どうしてかな…なんでかな…)」

 そのもやもやしたものを吐き出すように、大きくため息をついた。

「はい!完了!ってどないしたん?えらい難しい顔して」
「え?あ、そんな顔してます?」
「しとるしとる。あんまりしわ寄せてると可愛い顔が台無しやで」
「はあ…」
 ケラケラと笑う和武に、華果はしわの寄った眉間をさすさすとさするだけで、何の反応も示さなかった。
「あら、何の反応もなし?」
「え?あ、ありがとうございます」
「ううん、ええんや。ちょっと切なかっただけ」
「すいません」
 言葉どおり、ちょっと切なそうな和武から携帯電話を返してもらうと、一応メモリを確認する。
あ行であるから、メモリの一番前に来ていた。

「(もし、総次郎さんの番号が分かったら、総次郎さんの名前も前のほうに来るのよね…)」」

 カチカチと自分なりに登録しなおしながらそんなことを考える。
 店員である自分が、彼から番号を聞くことなどできない。
 よしんば聞いてもいいとして、どうやって切り出せばいいのだろうか。
 母のような積極さは持っていない。しつこく聞いて嫌われてしまうのもいやだ。

「(…総次郎さんに「可愛い」って言われたとき、凄く恥ずかしくて、嬉しく思ったのにな)」
いくらか前のことを思い出す。

 あの時、彼に言われた言葉に、華果はとても動揺した。
 どうしてかはわからない。
 もちろん、和武に言われて嬉しくなかったわけではないが、ただ、どう反応を返していいかわからなかっただけで、かといって動揺することはなかった。

「(総次郎さんに振り回されてるな、私)」

 客と店員。
 友人といえるのか微妙な距離。
 それでも。
 それでも――――。

「(それでも総次郎さんは、私の中でどこか『特別』―――なんだ)」


「ほんじゃあ、まあ、これからよろしくな」
「はい、まあ、お会いできるかわかりませんが」
「できるできる。ソウが絡んどんにゃもん」
「総次…ソウさんがですか」
「ああ、『総次郎』呼んでんにゃったら『総次郎』でええで。ええなあ、ファーストネーム呼び」
「はあ…そうですか」
 なんだか浸っている和武を尻目に、登録をし終えた携帯電話をポケットに戻す。
「とにかく、俺と会ったこと、ソウに言うたらあかんで」
「それ、さっきも思ったんですが、なんでなんですか?」
「ん、面白いから!」
「面白いから?」
「うん、まあ、こっちの話やな!」
 自信満々に答える和武に華果はやはり理解できなかったが、彼の気迫に押され、頷くしかなった。
「じゃ!また今度な!」
「あ、はい、ではまた今度」
 和武はアスファストの上の水溜りを器用に避けて走っていった。

「なんていうか――――嵐みたいな人…」

 荷物を抱えなおして、アスファルトの上の水溜りを避けながら、彼とは違ってのんびりとゆっくり避けていく。

「まあ、楽しかったし」

 いいか。

 空はまだどんよりとしていたが、それでも華果の心は晴れていた。


 彼の知らない一面を、なんとなく知れた気がしたから――――。


〜スイートピー〜end

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