第13話 シロツメクサ(約束)


「え?」

思わず声を上げたのは、当然のことだと思う。
呼び出したのは、目の前にいる彼女の母だ。なのに、なぜ彼女が―――華果がここにいるのだろうか?
当のカウンターに座っていた彼女はびっくりしたのだろう、いつもぼんやりさせている目を丸くしていた。

まあ、当然のことだと思う。
お互いがお互いを見つめあい、というか凝視しあい固まっていた。
まあ、当然のことだと思う。

「えーっと…」

沈黙を破ったのは総次郎だ。彼の脳内の処理能力は未だに現状を認識できていなかったが、とりあえず、この状況を飲みこもうと口を開いた。
「か、薫子、さん、は?」
挨拶することが出来なかったのと、言葉が途切れ途切れなのは、頭の中で重いデータを一生懸命処理していたからだ。

きっとそうだと思う。

びっくりしていた華果のほうも、なんとか状況を飲み込もうとしていた。
「お、お母さんですか? もう寝るっていって、ました、けど? もう、寝たんじゃないです、か?」
「ええ!?」
華果の言葉に、総次郎の脳は正常に…いや、我に返った。
そしてショックを受けていた。呼び出したのは、彼女ではないか。
「あの、お母さんがどうかしたんですか?」
総次郎の声に華果も何とか我に返る。そして訝しげに思ったのは、彼の発した言葉の内容だった。
「え?いや、薫子さんに呼び出されたんだけど…寝ちゃったの?」
「ええ?!そんな…!お母さんは一度寝ちゃうとなかなか起きないし、起こすと機嫌が悪くなるんですよ」
総次郎は寝起きの薫子を想像した。なぜか容易に想像できて、思わず顔が引きつった。
しかもかなり根に持たれそうな気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
電話に出なかったのは、そういうことだったのか。
「あー…なんだったんだろ」
「なんていうか、すいません…母が…」
申し訳なさそうな華果に、総次郎は慌てて手を振った。
「い、いや、いいんだ! うん、暇だったし!!」
暇ではない。酒を飲んでいたが、暇ではなかった。
だが、華果は悪くはないし、彼女が謝る必要もない。かといって馬鹿正直に、薫子のせいだ、ともいえない。
そして、華果を困らせるようなことを言いたくはなかった。
「そうなんですか?でも…もう、お母さんってば人を呼び出しておいて…すいません、ちゃんと言っておきますから」
華果は眉間に皺を寄せて言った。
自分勝手な母親に、カチンと来る。あんな無責任な人が自分を生んだ人だとは。
だがしかし、ああいう性格であるということは、今にわかったことではない。
「いや、いいんだよ。何の用事だったかは気になるけど、起こして殺…じゃない、怒られるのも嫌だし」
怒っているだろう華果の様子に、総次郎は苦笑いしながら言った。
言葉を飲み込んだが、無理やり起こしたら殺されそうな気がするし(あながち気のせいではないかもしれない)、呼び出されて多少の収穫はあった。ひとつは、仲間に任せることになってし まったが、苦手な飲み会から逃げ出せた。

もうひとつは―――華果に会えた。

それだけで、胸が何かに満たされて、恋心特有というといったらいいのか、そういうちょっとした焦りが生まれる。

「そうですか、ありがとうございます」
気を使ってくれているのだろう総次郎に、華果は微笑んだ。
本当にいい人だ。
しかし、この会話が一段落したとき、新たな問題が浮かび上がった。

「…………」
「…………」

話題がなくなり、どちらとも無言になってしまった。
二人とも会話下手な上、奥手で、何か話したいのに、話題が出てこなくなって気まずくなる。
総次郎が「じゃあ、また今度」と、帰ることが一番自然なんだろうが、華果に会えたのにさっさと帰りたくはない。かといって話題もない。
華果も、総次郎が帰ることが一番自然だとわかっていたが、引き止める理由が見つからずおたおとしてしまった。
「あっと、えっと…ご、ごめんね、こんな夜遅くに来ちゃって…」
何とか先に話題を見つけたのは総次郎だった。少し言葉に詰まっているのは、先ほどの無言の気まずーい空気の名残だ。
「え、いえ」
「そういえば、こんな遅くまで…お店は確か8時で閉まったよね?」
「あ…そのっ」
もっともな疑問に、華果はあたふたとする。そうだ、どうしてこんな時間まで店にいたのか

―――それは。

エプロンのポケットの上に手を添える。そこには、その理由が入っていた。
「?」
しどろもどろの華果に、総次郎は首をかしげた。
何かおかしなことを聞いただろうか。普段、仲間(主に二人)に「鈍感」だの「鈍」だの「鈍々」だの「空気読め」だの「無神経」だのだの…散々なことを言われまくっている。あんまりだ。
だがこれも、その類なのだろうか。冷や汗をかきながら今までの知識を総動員して打開策を考える。
総次郎は女性の扱いが下手だ。そういう色恋事に経験がないわけではないが、どうもうまくいかない。
おそらく、人見知りとネガティブシンキングなところが働いているせいだろう。
「あなたは私のことをわかってくれない」とか言われてフラれたこともある。

どうすればいいのだ、どうすれば…。

「そ、掃除をしていたら、こんな時間に―――」
無意識にポケットの上で握りこぶしを作りながら、華果の口から咄嗟に出た言葉は嘘だった。
どうしても正直にいえない。恥ずかしい、照れくさい、余計なことをしているのではないだろうか。
知り合ったばっかりの、ファンでもない花屋の女から、誕生日プレゼントなんてもらっても困るだけではないだろうか。
いや、彼のことだから笑顔で受け取ってくれるかもしれない。けれども、内心それをどうするか困るはずだ。
嫌なことばかり浮かんできて、華果は青ざめる。

「華ちゃん?」
様子のおかしい彼女に、総次郎は戸惑った。やはり何か変なことをしでかしてしまったのだろうか。
「(もしかして、邪魔に思われてたり?)」
総次郎の頭の中にも嫌な考えが浮かんできて、青ざめる。
見事にすれ違っているふたりを、薫子が見たらさぞかしふかーいため息をついたところだろう。
「(そりゃあ、掃除の邪魔しちゃったんだろうしなー。邪魔だろうなー)」
心の中で半泣きになりながら、やはり帰るべきだろうかと考える。
普通なら清潔に保たれている店内に、掃除がこんな時間までかかるなどおかしいこと考えるところであろうが、いかんせん、総次郎の余裕のない頭と心にはそんな考えなど浮かばなかった。
邪魔をして本格的に嫌われてしまう前に、退散したほうがいいのかもしれない。
「ごめん、邪魔しちゃったね…俺、帰るよ…」
顔で苦笑いして、心の中で号泣して、総次郎は店の外に出ようとした。

「あ!」

それに焦ったのは華果で、思わず声を上げてしまう。その声に驚いたのは、声を上げた当の華果と総次郎、両方だった。
無意識にあげた声に、華果は口を手で押さえた。そしてこみ上げてきた羞恥で顔を赤くした。

「は、華ちゃん?」
彼女の様子に、総次郎はわけがわからなくなった。声を上げたかと思えば、驚いた顔をして、そして顔を真っ赤にして…。
訝しく思ったが、ひとつの考えが総次郎の頭によぎる。
「もしかして、具合悪いんじゃ」
その結論は思いっきり的を外していた。
これを仲間(主に二人)が見ていたら、さぞかしふかーいため息をついて「愚鈍王」などとなじったことだろう。しかし、当の本人は本気だ。
心配になって総次郎は華果の顔を覗き込む。普段奥手な癖して、こういうときに(無意識に)大胆な行動に出る。

「!」

視界に映った総次郎の秀麗な顔のアップに、華果はびっくりして飛びひく。ひいた瞬間、足元のバケツを蹴ってしまったが、中身は空だったので事なきを得た。
飛びひいた華果がさらに心配になる。

「だ、大丈夫?」
口を押さえたまま、華果はこくこくと心配そうな総次郎に何度も無言で頷く。
華果の頭の中はパニックになっていた。自分でさえ制御できない心が、身体中を暴れまわっているというべきか。わけがわからなくなって泣きそうになって、思わず俯いてしまう。

どうしたらいいのだろう。 
この気持ちを落ち着けるには。

葛藤していると、また総次郎が声をかけてきた。
「え、えーっと、具合は悪くない?」
声にすることが出来なくて、華果はこくんと頷く。
呆れられているのではないだろうか。こんなわけのわからない行動で困らせて。

どうしたらいいのだろうか。
自分の気持ちを自覚した途端に、自分の心に戸惑う。

「華ちゃん?」
優しい声が耳に触れる。目に見えない何かが自分の中を、心を、身体を満たしてくれる。
まだ熱を持っている何かがあったが、幾分か落ち着くことが出来た。
口から手を離して、ゆっくりと自分に視線を合わせてくれる人と目をあわす。
綺麗な黒い瞳の中に、映るのは自分。

「!」

今度びっくりしたのは総次郎のほうだった。少し熱を持っているのだろうか、頬は赤く、目は少し潤んでいる。ただ、華果と違って驚いて飛びひくよりもその場で固まってしまった。

「あの…」
華果は深呼吸する。そうだ、今日自分は待っていたのだ、彼を。
来るかもわからないのに、馬鹿みたいに待っていた。
ここまで馬鹿をやったのだから、もう少し馬鹿をやってもいいのではないだろうか。
あまりに綺麗な瞳に映る自分を見たら、そんなことを思った。

自分が求めていたのは、彼なのだから。

そういえば、和武はこのことを知っていたのだろうか。彼がここに来ることを。だからあんなメールをくれたのだろうか。
にっかりと笑う和武が容易に想像できて、少し笑ってしまう。
困らせるかもしれない。それでも、彼のことだから自分に気付かれないようにどうとでもしてくれるだろう。優しいから。少しの付き合いしかないけれど、彼が優しいことは知っているから。
苦笑いしながらそんなことを考えると、気持ちは落ち着いていく。

そして手は自然とポケットに伸びていた。

「あの、これを…」
「え?」
「今日、お誕生日ですよね?」
掌サイズの黒い箱にラッピングされたそれを差し出した。
差し出されたプレゼントを反射的に受け取った、今の今まで固まったままだった総次郎は、思わず目を丸くした。突然のプレゼントに、驚いてしまうのも無理はないだろう。

そういえば、今日自分は誕生日だった。

「知って、たの?」

びっくりして聞き返す総次郎に、苦笑いする。
「はい、雑誌で見まして…」
本当のところは、和武に教えてもらったのだが、彼には黙っていろといわれたので黙っておく。どうして黙っておくのかは未だにわからないのだが。
「くれ、るの?」
「あ、やっぱり、余計なことでしたか?」
総次郎の反応に、華果の胸中に不安が舞い戻る。だが、慌てたのは総次郎のほうだった。
「ち、ちがっ!いや、びっくりしたんだ…華ちゃんが、その、知ってたことに…」

本当に驚いた。自分でさえ忘れてしまっていた誕生日を知っていて、なおかつプレゼントまで…。
呆然として、でもしばらくして嬉しさがこみ上げてくる。
「ありがとう! あ、あけてもいいかな?」
「あ、はい」
許可を得た総次郎は嬉しそうにそれを紐解いていく。
そして箱を開けると、出てきたのは…。
「…これ、シルバー?」
「あ、はい。男の方ってどういうものが喜ばれるかわからなくて…」

お気に召しませんでしたか?

そう心配そうに見上げてくる華果に、総次郎は首を振る。
「ち、違うよ!すごく高かったんじゃない?」
箱の中で光るそれは、シルバープレートに黒革の紐が付けられたブレスレットだった。
思わぬ効果なプレゼントに、総次郎はたじろぐ。
女性からこんな高価なものをプレゼントしてもらえるとは…。
しかし当の華果は首をかしげた。
「そうですか? でも、私普段それほどお金使わないですし…」
それ、私が見た中でまだ安いほうでしたよ?
そう言って不思議そうな顔をする華果に、総次郎は何もいえなくなった。恋人でもないのに、こんないいものを…。
しかもシルバープレートはなにも彫りこまれていないシンプルなデザインで、総次郎の好みだった。アクセサリーは好きだが、ごてごてデザインのものは好きではない。
嬉しさを通り越して涙がこみ上げてきそうだ。
「本当にいいものを…ありがとう」
「喜んで、くださいましたか?」
「うん、すっごく嬉しい!」
にっこりと、嬉しそうに微笑んだ彼の様子に、華果は胸を撫で下ろした。
喜んでくれている。彼の笑顔は心からの感謝だった。それが嬉しくて、自然と笑顔がこぼれる。

「よかった」

微笑んだ華果に、総次郎は思わず面を食らう。その笑顔が可愛くて、まぶしくて、胸の中を満たしていく。
「ほ、本当にありがとう。使わせていただきます…」
火照る顔を隠すように、箱を閉じて華果にお辞儀する。すると、ぷっ、となにか笑いをこらえたような声が降ってきた。訝しげに思って顔を上げると、おかしそうに笑う華果がいた。
「ふふ、総次郎さんって律儀ですね」
「そ、そうかな?」
「ええ、とっても」
受け取ってもらえた事が嬉しくて、華果は安堵した。よかった。本当に良かった。
弟に「シルバーアクセサリーとかがいいんじゃない?」と言われて、確かにそれはいいと思ったが、好みが外れると痛いとも思った。けれども、総次郎にはそういうものが似合いそうだったし、普段もいくつかそういうアクセサリーをつけていたことも思い出した。指輪やチェーン、ペンダントやネックレスにピアス…。割りとたくさんつけているが、それらは全てシンプルで、嫌味もなかった。また、細身で長身の彼には良く似合っていた。
だからシンプルなものを選んだのだが、どうやら好みのものだったようだ。
総次郎は笑われたことがちょっと不服だったが、なんだか嬉しそうなので水をさすことはやめておこうと思った。
「ねえ、華ちゃんの誕生日はいつなの?」
「え? 8月21日、ですが…?」
突然の質問にきょとんとしたが、総次郎は少し照れたように笑った。
「じゃあ、俺もその日、何か用意するね」
「え?! そ、そんなのいいですよ、私は好きでやったんですし…」
総次郎の申し出に、華果は笑っていたことも忘れて戸惑った。けれども、総次郎はくすくす笑いながら首を振る。
「じゃあ、俺も好きでやる。華ちゃんが喜ぶもの、用意できるかわからないけど」
本音だった。自分はいいものをプレゼントされたが、華果が喜ぶものをプレゼントできるかわからない。けれども、ここで何か渡さなきゃ男が廃るというものだろう。
「そんな…」
「期待しないで待っててくれると嬉しいし」
さらに言い募ろうとする言葉を遮るように、総次郎は言う。
華果は少し悩んだあと、少し困ったように、でも、これは総次郎の気のせいだろうか、気のせいでなければ嬉しいが、少し嬉しそうに頷いてくれた。

「はい。じゃあ、待ってます」



日付が変わるまであと少し。
明日は雨なのだろうか、空はどんよりしていたけれど、小さな約束をしあった二人の男女の心は、幸せに満ち溢れていた―――。


〜シロツメクサ〜end

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