第12話 アイリス(恋の始まり)


突然届いたメールの内容に、華果はわけがわからず目を丸くした。

「(いいことって?)」

何のことを言っているのだろう。
誰かと間違えて送ってしまったのだろうか?
華果はどう返信するべきか悩んだ。
そして、もうひとつ疑問を浮かべる。

『もうちょっと待ってたら、いいことあるかもよ』

―――――待つ。

そう、自分は待っているのだ。
来るかもわからない、あの人を。
来るはずのない、あの人を。
自分はただ、勝手に待っているのだ。

「(自分勝手…)」

胸にたまったもやを吐き出すように、華果は深い深い息を吐く。
いっぱいいっぱい吐いたはずなのに、胸の違和感は消えるどころか、よりいっそう酷くなった。
カウンターのいすに腰掛ける。

あの人と会ってから、自分の視界が随分と開けたような気がする。
それまでに自分の前を何かが覆っていたわけではないが、どこか晴れ晴れとした気持ちと、視界が広がった。
彼と出会ったのは本当に偶然だった。
モデルをしている弟が載っていた雑誌を、仕事が暇だったのでぱらぱらとめくっていた。
そんなとき、自分の視界の隅を、逃げるように何かが通った。
どうしてか、気になった。ちょうど開いていたページに、その人がただ、写っていたからかもしれない。
いや、多分そうだと思う。
なんとなく追いかけた。
そして、彼は隠れるようにしゃがんでいた。
いや、隠れていたのだ。
そして手を伸ばした。彼の助けになればと。

そして知ったのだ、彼のことを―――。

優しかった。
温かかった。
笑顔が、眩しかった。

気がつけば、その笑顔に惹かれていた。

照れた顔、すねた顔、怒った顔、笑った顔――――。

さまざまな表情を見せる人。
それに惹かれていく自分。

理由なんてない。ただ、惹かれる。胸を何か熱いもので満たしてしまう。
あの人が、自分を。

「(ああ、そうか)」

そうだ。
そうなんだ。
自分はあの人が-――。

だから待っている。
待ちたくて、待ち焦がれて。
約束も、何もしていないのに。

「(バカみたい)」

バカみたいに、待っている。
違う。バカなのだ。待っていること自体。

華果は椅子の上で膝を抱えた。その膝に、顔を埋める。
胸が苦しい。こんな気持ち初めてだ。どうしてだろう。
そうだ、やっぱり理由なんてないんだ。

あるとすれば、たった一つだけ―――


そして、時計の針が11時を過ぎたころ、耳に届いた半開きだったシャッターを開ける音と――――誰かの声。


「薫子さんーいったい何の用事なんですかー?」

まぎれもない―――彼の声。



***


大通りを出た総次郎は、慌てて近くの「空車」と表示されたタクシーの後部座席に飛び乗った。
行き先を告げて、シートに深く身体を沈める。
自然と、安心したような、疲れたような、どちらともとれ、どちらともとれないため息がこぼれた。
タクシーの運転手の男性が、気さくに何かを話しかけてくるが、人見知りの激しい総次郎は、軽く返事をするしかない。
無愛想な総次郎にもどかしさを感じたのか、しばらくすると男性は何も話しかけてこなくなった。
悪いような気もしたが、少し安心する。
エンジン音と、車を走らせたときの騒音を聞きながら、総次郎はゆっくり流れていく外の景色を眺めた。

もうすぐ日付が変わろうとしているのに、街は眠ることを知らない。

この人工的な街を彩る光は、明け方までつき続けるだろう。
地元も、眠ることを知らない街だったが、もう少し静かだった気がする。
わずかな光で照らされた石畳は、とても趣があって綺麗だった。
「(家、帰らなあかんなあ…)」
ふと故郷を思い出して、そんなことを思う。もう一年以上も帰っていない。
母は、上京してミュージシャンだなんて成功するかもわからない夢に反対した。
父は、やるだけやってみなさいと言った。
兄は、家は自分が継ぐから気にしなくていいと言った。
弟は、寂しがっていたがいってらっしゃいと言ってくれた。
「(今年くらい…帰るか)」
まだまだだが、なんとか軌道に乗り始めている。
今のうちに帰っておいたほうがなんとなくいい気がした。
帰る家があるのはいいことだと、なんとなく思った。
おかえりなさい、といってくれる人がいることはいいことだと、なんとなく思った。

待ってくれる人、そういってくれる人、そんな人が居てくれたらいいことだと、なんとなく思った。

自分の、そんな人になってほしい人はいる。
たった一人だけ。そう、たった一人だ。

彼女と出会ったのは、ほんの2ヶ月前だ。
あまり有名でもないはずなのに、女の子に追っかけられて、総次郎は慌てて逃げた。
要領のいい他のメンバーだったら、きっと笑顔の一つや二つ向けて見せる上に、さらに好感度をあげるようなことを一言二言言って見せるのだろうと思う。
だが、人見知りの激しい自分は違う。
だから逃げた。細い裏路地に。
そしてさし伸ばされた、小さくて、白い手が。
その手は少し荒れていた。それでもなんだかとても綺麗に思えた。
どうしてかはわからないけれど、とても綺麗に思えた。
そんな手に引かれて入った花屋の奥。追いかけてきた女の子たちをやり過ごして、初めて彼女とちゃんと向き合った。
人見知りが激しいせいか、人と面と向かって、目を見て話すことは苦手だったから、声をかけられたとき彼女の顔をしっかりみていなかった。

もしかしたら深く被りすぎた帽子のせいかもしれないけれど。

ともかく、面と向き合った彼女は、とても眠そうな、無表情な、なんともいいがたい表情の持ち主だった。
でも―――瞳がとても綺麗で、それでいて、とても可愛い女の子だった。

そして、目を――――奪われた。

世間一般ではそれを『一目惚れ』というのだろう。
作詞や作曲、人付き合いに疲れていたときに、「たまには休んだらいい」といってくれた。
ありきたりな言葉だった。でも―――優しい言葉だった。
笑った彼女はとても可愛くて、綺麗で、ただ惹かれ続けた。
出会って経った二ヶ月で、と言われるかもしれない。けれども、否定できない気持ちが胸の中に存在していた。

「(重症やなあ、俺)」

外は見慣れた景色を映し出していた。もうすぐ目的の場所につく。
総次郎は連絡を入れようと携帯電話を取り出して、呼び出した張本人に電話をかけた――――が、でない。
何度コールをかけても、相手は応じてくれない。
鳴らし続けてしまいには『電波が届いていない』、もしくは『電源が入っていない』ときたもんだ。
場所が場所だけに電波が届いていないはずはない。では、電源を切っていると???

「…まじか?」

どこまで俺様な人なんだ、あの人は。
総次郎はため息をついて、携帯をしまった。向こうから来いと言ってるのだから、無理をして連絡を取る必要もないだろう。
いまさらいっても仕方がないし、あった時からああいうタイプだということはわかっていたことだ。
「(あの人、母さんに似とる…あと、社長もあんな感じやな)」
母親は料亭の女将であるからか、とても気が強い。
事務所の社長もそうだ。女で社長なんかやっているからか、気が強い。
なんとなく薫子と社長と母がダブって、またため息をついた。
自分の周りはそういう女性ばかりなのかと―――。

「(華ちゃんは、そうでもないと思うけど―――)」

気が強い、というよりはどちらかというと大人しいタイプだ。
母親とは真逆のタイプにほれてしまったのは、まあ致しかたのないことだろう。

「お客さん、つきましたよ」

物思いにふけっていると、運転手が告げて来た。せっかくだが、哲也の金ではなく、自分の金で支払って車から降りた。
指定した場所は、花屋から少し距離があった。といっても10mほどだ。花屋は充分視界に入っていた。
人通りはもう殆どない。
花屋は途中までシャッターが降ろされ、そこから光が漏れている。
総次郎はさほど疑問に思わず、花屋に近づくとシャッターを引き上げた。

「薫子さんーいったい何の用事なんですかー?」

シャッターの先にいたのは、自分が想う彼女だった―――。


〜アイリス〜end next〜〜シロツメクサ〜

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