第五章

(3)


 その夜、ラティアリスは眠れずにいた。
 明後日の婚儀に緊張しているのかもしれない。またはその婚儀に対して罪悪感を抱いているからか。
 サイアルズに対する罪悪感は、この国人々接すれば接するほどに降り積もる。払拭しようにもできずにいた。
 ラティアリスは天蓋付きの軽く五人ほど眠れそうな豪華なベッドの上で身を起こす。少しも束ねていない銀の髪は、さらさらと揺れた。
「…ふう」
 ラティアリスはそっとベッドから降りた。何をするというわけではない。室内用の履物を履き、窓の外を眺める。月は半分以上かけていた。オルアンナを出てから、それなりに時間が過ぎていることを知らされた。
 思えば遠くに来たと思う。オルアンナで過ごしているときは、まさか他国に嫁ぐことになろうとは思ってもいなかった。当然だ、自分は王女とはいえあまり意味のない存在だったのだから。
 今日初めて会った、自分の夫となる青年の顔を思い返してみた。公平な判断を下す、良識のある王だと聞いていたが、人当たりは大変いい人物だった。例えこれから正妃を娶り、自分の相手をしなくなったとしても、きっと彼は自分を邪険に扱いはしないだろう。何となくそう思えた。
 いや、彼はある人と重なったのだ―――母国にいるオーリオと。
 優しい笑顔も、優しい言葉も、優しい対応も、ラティアリスにオーリオを思い起こさせた。
 だから、夫というより兄と、そう感じてしまう。そういうわけにもいかないというのに――。
 実のところ、ラティアリスは恋というものを一度もしたことがない。同じ年ぐらいの異性と遊ぶことはまずなかったし、接することもなかった。だからよくわからない。
 目を閉じる。
 すると、ブルーサファイアの瞳が浮かんできて、慌てて瞼を上げた。
 つい先日のことを思い出す。王と同じブルーサファイアの瞳を持つ男性に、飲み込まれそうになったあの日のことを――。
 ラティアリスはそれを追い出すように首を振った。飲み込まれてはいけない。きっと自分は何か思い違いをしているのだ。今まで男性という男性にまともに接したことがなかったから、困惑しているだけだ。
 きっとそうだと、ラティアリスは必死に自分に言い聞かせた。
 明日は婚儀、ラティアリスは条約を完全なものとするために、他国に嫁ぐことになる。
 そのために、自分はこの国に来たのだ。
 ラティアリスはそこから静かにテラスへと出た。春の優しい風がラティアリスの頬と髪をくすぐる。
 そこは二階だったが眼前には広い庭が続いており、その先は城壁で囲まれていた。もう少し上の階へ行けば、サイアルズの城下町を眺めることができただろうが、残念だ。 
 この国はどんなところなのだろう。
 本や人の話だけでなく、自分の目で確かめるべきだろうし、ラティアリスにはその時間が十分に与えられている、はずだ。少なくとも、自分の正体がばれずに済めば、だが。
 テラスの手すりにすり寄る。月は変わらずそこにある。
「姫」
 ふと、人の声がした気がしてあたりを見回す。しかしどこにも、庭にも居ない。
「ここですよ、ここ」
 言われたとおりに頭を巡らせば、斜め下のテラスの手すりに座っているアサギこと、レグシアの姿あった。先程まで思い返していた人物の登場に、ラティアリスは思わず息をのむ。
「あ、アサギ様っ?!」
「こんばんは」
 にっこりと微笑めば、優しい面持ちが浮かび上がる。レグシアは手すりに乗りあがると、軽業師のように手すりから手すりへ、ひらりと上りあがる。彼は本当に運動神経がいいようだ。あっという間にラティアリスのテラスまでやってきて、手すりに腰掛ける。驚いて口をあんぐりと開けているラティアリスに、レグシアは笑みをこぼした。
「驚きました?」
「…驚きました…。本当に身軽ですね」
「取り柄みたいなもんですからね」
 ラティアリスの素直な反応に、レグシアは嬉しそうに笑う。なんだか子供っぽい人だ。それがまた、ラティアリスをかき乱す。ブルーサファイアの瞳となるべく目を合わせないように、ラティアリスは口を開いた。
「あの、ここって後宮なんですよね?」
「そうですね」
「なんでアサギ様がいらっしゃるんですか?」
 もっともな疑問だった。後宮とは王の妃たちが住まう宮殿であり、基本的に王以外の男性は立ち入ることを禁止されている。それは、妃と、王以外の男性との間に不貞を働かせないためでもある。
 それなのに、この青年は平然と後宮に侵入していた。王の覚えがあるとはいえ、来ていいものなのだろうか。いや、それだけではない。彼は他国の王宮にも軽々と侵入していた。それともサイアルズとオルアンナでは後宮の意味合いが違うのだろうか。ラティアリスはまだ王の妃ではないが、婚約はしている状態だ。その彼女が、王以外の男性と接触があるのは好ましくない。レグシアを本当の夫となる人物だと知らないラティアリスは怪訝そうに眉を寄せた。
 そんな彼女にも焦った様子もなく、レグシアは笑みを崩さない。
「ここは、あなたが入られるまでは閑古鳥が鳴く状態でしてね。まあ、おかげで陛下の近しい人間の遊び場になってるんですよ」
「はあ…」
「なので、割と簡単に侵入ができてしまうんです」
「………」
 レグシアが平然と放った言葉に、ラティアリスは呆れて声も出なかった。確かに、自分はサイアルズ国王の初めての妻となるが、それでいいのだろうか。他に女性を娶ったときなどはどうするつもりだろう…。少し不安になった。
「まあ、一番の理由は姫が気になったからなのですが」
「え?」
 自分のことを言われて、思わずブルーサファイアの瞳と目線を合わせてしまう。眼鏡の向こうの瞳は優しげに輝いていた。
「不安は、ありませんか?」
「あ、いえ、大丈夫です」
 何もかも見透かされてしまいそうで、ラティアリスは慌てて視線をそらせた。早鐘のように心臓が脈打つ。
 不安ならいくつもある。
 自分が本物のアルマリアではないことや、サイアルズを騙していること。目の前の人を騙していること。
 それが知られたとき、自分はどうなるかということ―――。
 他にも挙げればきりがない。けれど、それを口に出すわけにはいかなかった。口に出せば、すべてが崩れ、自国がどうなってしまうか分からない。
 不安を持っているのに吐き出そうとしないラティアリスに、レグシアは苦笑いした。
「何かあればいつでもご相談に乗ります。些細なことでも構いません、あなたの力になりましょう」
「…どうして、ですか?」
 レグシアの申し出に、ラティアリスは目を丸くした。変わった人だとずっと思っていた。どうしてここまでよくしてくれるのだろう。ラティアリスの正直過ぎる、けれども尤もな疑問に、レグシアは息を詰まらす。
「あ、いえ、ほらやっぱり、他国では色々と不安もあるでしょう。ですから、姫の護衛をさせていただいたものとしては、気になるのですよ」
「まあ、ありがとうございます」
 レグシアはあれやこれやとなんとか理由らしい理由をこじつける。ラティアリスは挙動不審なレグシアに気付かず、彼の気遣いに顔をほころばせた。その笑顔に、レグシアも安堵した。
 ふと、レグシアの視界にあるものが入る。
「あれは―――」
「え? ああ、薔薇ですか? 陛下から戴いたのです」
 ラティアリスは嬉しそうに笑う。レグシアの視線の先には、部屋に飾ってある薔薇があった。
「―――あれは薔薇園のものですよ」
「あ、はい。ユーリスさんからお聞きしました。後宮の奥には薔薇園があると…あれはそこのものだろうと」
 レグシアが愛おしそうに薔薇を見つめるので、ラティアリスは戸惑った。どうしてそんな眼で薔薇をみるのだろう。
「薔薇園の由来については、何か聞かれましたか?」
「は、はい。先王さまがあるお妃さまのために造られた薔薇園だと―――」
 視線を向けられ、ラティアリスは困惑しながらも教えてもらったことを口にする。レグシアは、そうです、と頷いた。
「先王、フィドリス陛下には、何人もの美しい妃がおられました。けれど、本当に愛しておられたのは、たった一人の妃でした」
「………」
 レグシアは再び薔薇に視線を戻す。その瞳が懐かしそうで、けれど一方で哀しそうで、ラティアリスはそんな彼から目線が外せなかった。
「そのお妃さまは、それほど身分の高くない女性でした。それでも王は、その妃を愛していました。妃もまた、王を愛していました。例え王妃の嫉妬の矛先が向こうとも、妃の想いが揺らぐことはなかった―――」
 その瞳は何を映しているのだろうか。ラティアリスにはわからない。
「そんな妃は大変な薔薇好きでした。だから王は、彼女に薔薇園を贈ったのです」
 そう言ってレグシアは微笑んだ。その笑顔がさびしそうに見えるのは、ラティアリスの気のせいだろうか。なぜかそんな彼を見ていると、辛くなった。彼女の表情に気づいて、レグシアは苦笑いする。
「つまらない話をしました」
「いえ、そんなことはありません…あの、そのお妃さまは今―――」
「亡くなられました。もう、10年以上前のことです。病でした」
「そう、ですか…」
 寂びそうに笑む彼を見ていて、ひとつの考えにたどり着く。彼は、その妃を慕っていたのではないだろうか。ラティアリスにそのような経験はない。けれど、なぜかその考えに至った。
 そしてそれが、何故かとても寂しく思えた。
「陛下がお許しになれば、姫もそこを訪れることができるでしょう」
「…アサギ様は行ったことがあるのですか?」
「ええ、しょっちゅうですよ。とても綺麗なところです」
 そう言ってアサギは微笑む。ああ、いつもの優しい笑顔だ。自然と安堵のため息が漏れた。
「行ってみたいですね」
「是非。私からも陛下に進言致しましょう」
 レグシアの申し出に、ラティアリスは笑みをこぼす。そこでふとひとつの考えに及んだ。
「ずっと思っていたのですが、アサギ様って―――」
「え?」
 目を丸くするレグシアに、ラティアリスはにっこりとほほ笑んだ。
「いい人ですね」
「――――っ」
 彼女の一言が、レグシアの胸を何かが貫く。ラティアリスの放った言葉は予想以上の打撃を与え、レグシアはその場に崩れ落ちそうになったが、ここでバランスを崩せば二階から落ちることになるので何とかこらえる。
「いい人、ですか…」
「はい、アサギ様には本当に色々と感謝しております。ありがとうございます」
 思えば彼には色々と助けられている。襲撃を受けた時もそうだし、サイアルズのことを教えてもらったりもした。本当にいい人だ。彼と話すと、戸惑うこともあるが、その一方で楽しくもあった。
「…帰ります」
「え、あ、はい。お気をつけて。おやすみなさい」
 なんだか急に暗い空気を背負ったようにみえるのは、気のせいだろうか。レグシアは悲しそうな様子のまま、ラティアリスに返事をし、手すりから手すりへと飛び降りて行った。
「…どうしたのかしら?」
 急変した彼の態度が、ラティアリスは気になって仕方なかったが、彼女の部屋からこっそりその様子を見ていた表情の変化が乏しい侍女は呟く。
「ヘタレめ」
 何か変な気でも起こせばこの針で首でも指してやったものを。
 ラーラはきらりと手の中で光る暗器を見つめた。

 


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