第1話 キブシ(出会い)


深く帽子を被った彼は、身を隠すように壁際に座り込んでいた。
雑誌を持った彼女は、そんな彼と雑誌の中身を見比べていた。

これでもかというくらい、帽子を引っ張って、彼は必死に顔を隠していた。
これでもかというくらい、眠たそうな彼女は、彼の顔を眺めていた。

「この人?」
彼女は雑誌の中身を彼に向けて、指差した。
「まあ、そんなとこ」
帽子を押さえつけたまま、彼は視線をずらしてまごまごと答える。
「追っかけに、追っかけられてる?」
慌しい、甲高い女性たちの声が、表通りからする。
「まあ、そんなとこ」
帽子を押さえつけたまま、彼は視線をずらしたまま、まごまごと答える。
「困ってる?」
丸い、しかしどこか眠そうな目で、彼女は聞いてきた。
「まあね」
「じゃあ、こっちきてください」
彼がため息混じりにそう答えると、彼女は彼の腕を掴んで引っ張った。
無理やり立たされて、彼は戸惑うが、彼女は彼の腕を引いたまま、そのまま歩いていく。
表通りへ。
「え?!ちょっと、まって」
表通りには自分を追いかけてくる女性たちが…。
そう訴えたいが、さっさと表通りに戻った彼女は、これまたさっさととある店へ入っていった。
「ここにいてください」

―――花屋?

そこは色とりどりの、季節の花々が生き生きと咲いている、おしゃれな花屋だった。
彼女は彼を見せの奥へ通じるドアの奥へと追いやると、バタンと扉を閉めた。

どうやら助けてくれるらしい。

彼は、ほっとして、その場にへたり込む。
帽子を被りなおして、周りを見渡した。
そこには仕事道具だと思われる、バケツやハサミ、水差しなどが丁寧に置かれてあった。
さらに奥に通じるだろうと思われるドアもある。
すると、自分が入ってきたドアの向こうから声がした。

『ねえ』

知らない声だ。

『はい、いらっしゃいませ』

彼女の声だ。

『ごめん、お客じゃないんだ。ねえ、ソウ見なかった?』
『ソウ?』
『あーフリージアのソウよ』
『??フリージア?ありますけど』
『いや、そうじゃくてね……まあ、いいわ。気のせいかもしれないし』

そう言って知らない声は遠ざかっていった。
どれくらいした頃だろう。
がちゃりと、扉が開いた。
そこには眠たそうな彼女がいた。
「もう大丈夫みたいですよ」
「あ、ああ。ありがとう、助かった」
そう言って彼は立ち上がった。
「有名人なんですか?雑誌載ってるくらいだし」
「え?ううーん、どうだろう。でも、知ってる人は知ってるかも」
彼は苦笑いして、頬をかく。
彼女のこの言葉は、自分を知らないということだ。
なんだかショックを受けている自分がいた。
 まあ、仕方ないけれど。
彼女は彼の変化には気づかずに、手にしていた雑誌をばらばらめくった。
行き過ぎて、少し戻ると、そこには四人の男性が写っていた。
「この人ですよね」
そういって、彼女は四人のうち一人を指差した。
「そうだよ」
そう答えたのは、四人のうちの指差された彼だった。
「『フリージア』って…?」
「ああ、フリージアって花の名前だよね。俺も詳しいこと知らないんだけどさ…。一応、その名前とその四人でバンド組んでて、一年半前にメジャーデビュー」
「有名になると、大変なんですね」
「そうなんだよね。俺、別に追っかけられたくて、メジャーデビューに賛成したわけじゃないんだけど…」
「そうなんですか?」
「いや、追っかけられるのはねえ、そうないんだけど、たまにね。ある人なんて、ストーカーまがいなことしてくるし…」
はあ、と彼は深くため息をつく。
彼女は大変なんだなあ、ともいつつも、その眠たそうな表情はかわらない。

「俺はね、自分の歌を聞いてくれる人を少しでも増やしたくてデビューしたの」
「夢ですね」
「そう、夢」

彼は微笑む。

「まだ、完璧に叶えてないけどね」
「そうなんですか」
「うん。まだまだだよ」
「がんばってくださいね」
眠たそうな顔だったが、彼女は優しく微笑んだ。
とろんとした、温かい微笑みに、彼は一瞬見とれてしまう。

「じゃあ、これあげます」

「え?」
彼女の声で、すぐに我に戻った彼の前に差し出されたのは、小さな植木鉢に入れられた、小さなピンクの花がいくつもついた可愛らしい花だった。
「これ、『アルメリア』っていいます」
「聞いたことない」
「花言葉は『平凡な日々』。フリージアの『未来への希望』を追い続けるのもいいけど、すこ
し落ち着いてみるって感じで」
どうぞ、と彼女は彼に差し出した。
戸惑いつつ、植木鉢を受け取る。
ひらひらと花が揺れた。
「えっと、いくら…」
「お金は要りませんよ。あ、袋要ります?」
「え?いや、いいけど…。本当にいいの?」
「ええ、なんだか大変そうですし。少しは休んでみてください、って意味で、受け取ってください」
「…ありがとう」

彼は微笑んで、『平凡な日々』を受け取った。

メジャーデビューして、人気が出て、かなり忙しい日々が続いている。
オフの日には、町に出るとだいたいこんな調子だ。
デビュー当時はそうでもなかったのに…。
追っかけてくる女性たちは元気だなあ、と思うが、また迷惑なのも事実である。
夢を追い続けるのもいいけど、彼女の言うように、少し平凡な日々に戻ってみるのもいいかもしれない。
微笑む彼女をみて、彼はふと思った。
「また来ていいかな?」
「どうぞ、そのときはお客さんとしてお願いしますね」
「うん」
客とはしてだが、歓迎されたことが嬉しくて、彼はにっこり笑った。

「俺は、五十嵐総次郎」
「あ、だから『ソウ』なんですね」
「うん。一応その名前は芸名、って言ったらいいのかな」
「私は空口華果っていいます」
「よろしくね」
「ええ、こちらこそ」

彼と彼女は微笑みあって、言葉を交わした。

それはアルメリアのような、平凡な日々の出来事の一つ。


  〜キブシ〜end

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